第55節『夜の潜入』
第55節『夜の潜入』
直虎から北の砦への潜入を許された日から、源次はただ待っていたわけではなかった。
昼は近侍として直虎の側に控え、夜は密かに城を抜け出し、砦を見渡せる森の奥深くへと足を運ぶ。それを幾夜も繰り返した。
篝火の灯りが作る光と影の移ろい。番兵の歩哨の癖。交代の合図として鳴らされる小さな鐘の音の間隔。砦の内部で吠える犬の数と、その繋がれている方角。すべてを観察し、頭の中に完璧な地図を描き上げていった。
そして、決行の夜。
月はなく、空は墨を流したように暗い。星さえ雲に覆われ、森と砦の輪郭すら溶け合っている。
源次は湿った土の上に身を伏せ、全身に塗り込めた泥の匂いを肺に吸み込みながら、じっと息を整えていた。頭巾を深くかぶり、露出した皮膚は黒く塗り潰してある。闇に紛れるための準備に、余分なものは一切なかった。
「……風向きはよし。交代の刻まで、あと半刻」
心中で囁く。
(足軽時代に学んだ砦の構造。漁で培った身のこなし。そして――俺の頭の中にある知識。全部を使う)
腰に巻いた縄をそっと撫でる。細くとも、麻を幾重にも編み込んだ強靭な縄。その先端には鉄の鉤。夜気は冷たく、吐息すら白く見えそうだった。だが源次は、呼吸を極限まで浅くし、土に溶けるように身を沈める。
闇は、味方だ。
やがて、遠くで小さな鐘が鳴った。
刻限を告げる音。番兵の交代が始まる。
その瞬間、源次は影のように動き出した。
膝を折り、身体を地面に這わせ、獣のように低い姿勢で森を抜ける。草の葉先が濡れ、衣をかすかに濡らす。小さな水滴が落ちる音さえ耳に刺さるようで、神経は極限に張り詰めていた。
最初の難関、空堀。砦を囲むように掘られた深い溝。
源次は堀の縁に身を伏せ、耳を澄ませた。篝火の下を行き来する番兵の足音。
(奴らの視線は前方を向いている。足元への警戒は薄い。今だ!)
土を蹴り、身を滑らせる。斜面を音なく滑り降り、堀の底に身を伏せた。湿った土の匂いが強く鼻を突く。
息を殺し、匍匐で進む。足元の石に草鞋が触れぬよう、爪先だけで土を押す。
頭上を兵の影が通る。草むらに光が揺れる。わずかに咳払いの音。だが、こちらには気づかない。
堀を渡り切ると、次の障害が立ち塞がる。
柵。幾重にも打ち込まれた木杭が、侵入を拒むようにそびえる。
源次は懐から小さな道具を取り出す。漁で使う、鋭い鉄のノミ。
(木材の最も弱い部分は、力の集中する継ぎ目だ。テコの原理を使えば、音を最小限に抑えられる)
柵の継ぎ目にそれを押し当て、全体重を乗せてゆっくりと力をかける。ミシミシという音は、草むらの虫の羽音にすら紛れるほど微かだった。
やがて、身体一つがぎりぎり通るほどの隙間が生まれる。源次は腹を地に付け、蛇のように身体をねじ込み、柵の向こうへと抜け出した。
胸にまとわりつく衣を直す暇もなく、最後の難関が迫る。
石垣。高さは三丈余り。足場は少なく、普通ならば到底登れぬ。
源次は縄を手に取り、鉤を静かに振り回した。
(遠心力で勢いをつけ、放物線の頂点で力を抜く。物理法則は、この時代でも変わらない)
月明かりのない闇の中、感覚だけを頼りに石垣の上を狙う。
一度目、外れる。鉤が石を擦り、かすかな音を立てた。源次は息を止め、身を凍らせた。
……足音。番兵が歩を止めた気配。光がわずかに揺れる。
(まずい、気づかれたか? いや、まだだ。人間は暗闇で予期せぬ音を聞くと、警戒するがすぐには動けない。心理的なタイムラグがあるはずだ)
じっと待つ。彼の予測通り、兵は不審に思いながらも再び歩き出した。
三度目。鉤が石の出っ張りに吸い込まれるように噛み合い、縄がぴんと張った。
(……決まった)
源次は縄を両手で確かめ、そっと身体を引き上げる。
(腕力だけに頼るな。脚の筋肉を使い、体幹でバランスを取る。クライミングの基本だ)
船のマストを登るように、手と足を交互に動かす。汗が額を伝う。
じりじりと、だが確実に。やがて石垣の縁に手がかかる。
源次は体を引き上げ、石垣の上に身を伏せた。
砦の内側――。
息を整える間もなく、近くを兵が通る。槍を肩に、篝火を背にした影。
源次は壁の影に身を潜め、心臓が喉から飛び出しそうになるのを抑える。
足音が遠ざかるのを待ち、ようやく小さく息を吐いた。
眼下には、寝静まった兵舎。規律正しく並ぶ槍と鎧。そして中央には、一際大きな館。
(あそこか……新太のいる場所は)
唇を結び、闇に溶けるように身を動かす。
「……入れた」
囁きは、誰にも届かない。だがその胸に、確かな達成感が広がる。
しかし同時に理解していた。ここから先こそが、本当の危険。
砦の奥深くへ――黒い影は、さらに闇に沈んでいった。