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第54節『偵察任務』

第54節『偵察任務』

 夜は深く、風の音さえも遠ざかったように静まり返っていた。

 源次は隠れ家の灯火の下、ただ一枚の紙に向かっていた。

 そこには、大きく「新太攻略」と書かれている。

 彼は筆を置き、思考を整理した。(徳川との同盟は、井伊が生き残るための最終目標だ。だが、その前に片付けねばならぬことがある。背後に新太という刃が突きつけられたままでは、安心して岡崎へは向かえぬ。もし我らが徳川と手を結んだと知られれば、新太は必ず動く。そうなれば井伊は挟み撃ちに遭い、滅ぶ)

 つまり、新太問題の解決こそが、徳川との交渉を成功させるための絶対条件なのだ。

 筆先を止め、彼は深く息を吐いた。

 「……暗殺せよ、か」

 直虎から下された非情な密命。その響きが、頭の中で何度も反芻される。

 (殺すのか、あの将を……?)

 あの夜、浪人が涙を浮かべて語った「兵を守る将」の姿が、どうしても脳裏から離れない。

 源次は筆を動かし、紙の余白に列挙していった。

 夜襲。陽動。毒殺。狙撃。暗殺。

 戦場における敵将攻略の定石。だが、列挙した瞬間から、彼の手は一つずつ線を引いて消していく。

 (夜襲や陽動は兵の数が要るが、井伊の兵力では到底足りん。毒殺や狙撃も、兵に慕われる彼には隙がない。暗殺など、もってのほかだ)

 彼は最後の二文字を強く消し、墨が滲んだ。

 (殺すだけでは足りぬ。いや、それではむしろ逆効果だ。もし新太を討ち取っても、兵たちは復讐に燃え、第二、第三の新太が現れる)

 源次は筆を置き、掌で顔を覆った。

 「……敵ながら、あれは将の器よ。ならば、ただの小細工では通じぬ」

 静かな夜が更けていく。灯火の下、紙にはただ一行――「まずは知ること」と書き加えられていた。


 数日後。井伊谷城の奥、直虎の私室。

 源次は一人、直虎の前に控えていた。

 直虎は沈痛な面持ちで問いかけた。

 「源次。新太を『何とかせよ』と命じてより数日が経ったが……進むべき道を見つけたか」

 源次は一歩進み、頭を垂れた。

 「はい。重吉殿とも策を練りましたが、大軍での攻撃も、暗殺も……今は無益にございます。むしろ、有害ですらありましょう」

 直虎の眉が動く。「有害、とな?」

 「はい。彼の将は兵に慕われ、民にまでその仁政が伝わっております。もし我らが卑劣な手で彼を討てば、兵は復讐の鬼と化し、民の心は完全に井伊から離れましょう。そうなれば、直虎様の名に泥を塗ることになります。それだけは、断じて避けねばなりませぬ」

 その言葉に、直虎は息を呑んだ。源次は戦の損得だけでなく、自分の評判、ひいては井伊家の統治の根幹まで見据えていたのだ。

 「ならば、どうする」

 源次は顔を上げ、真っ直ぐに言った。

 「私一人で、北の砦に潜入いたします」

 直虎は目を見開いた。「……本気か」

 「はい」

 源次の声は揺るがない。

 「戦うためではありません。ただ、見るためです。敵の懐で、その素顔を、この目で確かめるために」

 「何を……そこまでして」直虎の声は震えていた。

 源次は静かに微笑んだ。

 「殿。あの将を討つのは容易ではありません。ですが……彼が真に求めるものを見極め、そこを突けば、あるいは刃を交えずして勝つ道があるやもしれませぬ。それこそが、最も血を流さず、直虎様の名を汚さぬ最上の策と存じます」

 沈黙が落ちた。直虎は言葉を失ったまま源次を見つめる。

 その瞳には、常軌を逸した狂気と、それを裏打ちする冷徹な分析力が同居していた。

 やがて直虎は唇を噛み、震える声で言った。

 「……そなたの言う通りやもしれぬ。許すしかあるまい。……だが、無事に戻れ。必ずだ」

 その言葉に、源次の心臓は歓喜に打ち震えた。

 (俺の策が……推しに認められた! しかも、俺の身を案じてくれている……! この一言だけで、どんな危険な任務も乗り越えられる!)

 源次は込み上げる熱いものを必死に抑え込み、深く頭を下げた。

 「御意」


 砦を攻めるためではない。敵を討つためでもない。

 ただ、知るために。

 源次の孤独な戦いが、いま幕を開けようとしていた。

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