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第53節『直虎の命令』

第53節『直虎の命令』

 数週間ぶりに、源次は井伊谷に戻ってきた。

 岡崎での潜入生活では常に気を張り詰めていたが、城の門をくぐり、懐かしい山と田の匂いに包まれると、不思議なほど胸が緩む。だが、その安堵も長くは続かない。自らが背負う役目を思えば、この帰還もただの小休止に過ぎぬことを、彼はよく知っていた。

 夜更け、直虎の私室に呼ばれる。

 畳の上に置かれた小さな灯明の光が、彼女の横顔を淡く照らし出していた。

 「ご苦労であった、源次」

 柔らかな声。しかしその裏には、領主としての緊張が微かに滲んでいた。

 源次は深く一礼し、用意してきた報告を静かに始める。

 「岡崎城下の市は日ごとに賑わいを増しております。物価はおおむね安定、米も塩も潤沢。城の普請も着々と進み、徳川の財力の底知れなさを感じさせます」

 直虎はうなずき、目を細めて耳を傾ける。

 「家臣団の様子は?」

 「はい。酒井忠次殿は依然、家中の要として動いており、石川数正殿は領内経営に長け、評判も高うございます。だが、その一方で…」

 源次は言葉を切った。軽率な推測を口にしないよう、慎重に言葉を選ぶ。

 「権勢の均衡は保たれておりますが、微かな綻びも見受けられます。家中の若き者の中には、酒井殿の専横に不満を漏らす声も…」

 直虎の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 「よう見ておるな、源次。まるで鷹の眼よ」

 その一言に、源次の胸は熱くなった。

 (よし、推しに褒められた! これだ、これが欲しかった!)

 内心でガッツポーズをしながらも、顔はあくまで冷静を装う。

 「そなたのおかげで、岡崎の動きが手に取るようにわかる。実に頼もしい」

 直虎の声には感謝と信頼が滲んでいた。源次は至福の気持ちを噛み締めつつ、膝をついたまま頭を下げた。


 しかし――。

 次の瞬間、直虎の表情が翳った。

 「…じゃが、源次。徳川の儀ばかりに目を奪われてはならぬ」

 声が低く落ち、部屋の空気が重くなる。

 「我らの喉元に、すでに刃が突きつけられておるのだ」

 源次は息を呑んだ。「喉元に…刃、でございますか」

 直虎は視線を床に落とし、静かに言葉を紡ぐ。

 「北の砦に陣取る新太――あの男よ」

 源次の脳裏に、酒場で耳にした噂が蘇る。武田の赤鬼とも称されながら、兵に慕われ、領民をも労わる稀代の将。

 直虎は、その名を口にしただけで肩を強張らせていた。

 「彼の武勇は、もはや人の域を超えておる。…我が方の兵どもは、名を聞くだけで震え上がる始末じゃ」

 直虎の声には苦々しさが滲んでいた。

 「だが、それだけではない。もっと深い禍根がある」

 彼女は灯明の炎を見つめ、吐息とともに続けた。

 「国境の村々で噂が広がっておるのだ。『新太は領民を慈しみ、決して無益な略奪をせぬ』と。…そして、ついにはこう囁く者まで現れた」

 一瞬の沈黙。直虎は唇を噛みしめ、低く言った。

 「『武田の赤鬼は、井伊の姫様よりも慈悲深い』――とな」

 源次は言葉を失った。それは、井伊家にとって最も危険な噂だった。

 「…領民の心が、離れつつあるのだ」

 直虎の瞳には、領主としての痛切な恐怖が浮かんでいた。

 「このままでは、井伊は内から腐り落ちよう」

 その言葉は、源次の胸を重く締めつけた。


 直虎は立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。

 遠く、北の山々が黒々と影を落としている。まるでその奥から、新太の影が迫ってくるかのようだった。

 「…源次」

 振り返った直虎の瞳は、もう迷いを許さぬ領主の光を宿していた。

 「そなたに命ず。あの男を――何とかせねばならぬ」

 その言葉には、戦国の現実が凝縮されていた。「何とかせよ」。それは調略か、妨害か、それとも…。

 源次の背筋を冷たいものが走った。(あの言葉の裏には、暗殺すら含まれている…)

 彼は思わず酒場での声を思い出す。「新太様のためなら死んでもいい」――そう語った浪人の瞳。そして、自らが抱いた歴史研究家としての疑問。(これほどの男が、なぜ歴史から消されたのか…?)

 尊敬すべき敵将であり、解き明かすべき歴史の謎。だが、今はそれだけではない。

 (感傷に浸っている場合じゃない。彼は今、井伊家を滅ぼしかねない最大の脅威だ。研究対象としてではなく、この井伊谷を守る当事者として、俺は彼を『排除』することも考えねばならないのか…)

 その命を、推しの命令で絶てというのか。

 「……」

 源次の喉が、音を立てて鳴った。

 直虎は彼の沈黙を見つめ、やがて小さく頷いた。

 「そなたしかおらぬ。わしが口にできぬことを、そなたならば成し遂げよう」

 敬愛する主君の、悲痛なまでの決意。その姿を前にして、源次の中で全ての逡_は押し潰された。

 「…御意」

 絞り出すような声で、彼は応じた。

 その瞬間、源次は理解した。

 彼の新たな任務は、ただの諜報ではない。

 尊敬すべき敵将であり、歴史の謎でもある男・新太の「攻略」。

 それは、井伊家を守るためにして、同時に己の心を最も苛む試練の始まりであった。

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