第52節『新太の評判』
第52節『新太の評判』
源次は井伊谷を発ち、数日をかけて三河の国へと入っていた。
岡崎の城下は、戦国の不安定さと商都の賑わいが入り混じった土地だった。
城下町を縦横に走る道は人と荷車であふれ、早朝から夕暮れまで絶えることがない。米俵を担ぐ農人、鍛冶場から槌音を響かせる職人、布を広げる行商人、そして行き場を失った浪人たち――。それらが混然一体となって、熱を帯びた空気を作っていた。
源次は、そんな雑踏の中に自然に溶け込んでいた。
「薬売りの佐吉」である。
肩に薬籠を提げ、腰に帳面を差し、声を張らずに柔らかな笑みを浮かべる。商いの声が飛び交う喧騒の中でも、彼の声は落ち着きがあった。
「風邪の引き始めには葛根湯。胃の重さには陳皮と半夏を合わせた丸薬。旅の疲れには人参と当帰を……」
口上は軽やかだが、声の調子はどこか親身で、聞く者を安心させる力がある。
町の者たちは最初、よそ者に対して警戒心を見せた。だが、源次は笑みを絶やさず、病を訴える者にはじっと耳を傾けた。腰を痛めた老人の愚痴には相槌を打ち、子どもの咳には柔らかく心配げな顔を見せた。
「この町に来たばかりで、まだ勝手が分かりませぬ。よろしければ、道々の名を教えていただけませんか」
そうして教わった地名を帳面に記し、通りの曲がり角や地形を目に焼きつける。薬を売ることが口実で、彼の本当の収穫は人々の顔と名前、町の構造だった。
(まずは信用を得ること。情報は、信用の後にしかついてこない)
夕暮れには、佐吉の名は徐々に町の人々の口に上り始めていた。気さくで腰の低い薬売り――それが源次の偽装が成功している証だった。
夜。岡崎でもっとも賑わう宿屋の酒場。
暖簾をくぐると、油皿の明かりが揺れ、湯気と煙草の煙が入り混じっていた。木の卓は人で埋まり、酒と笑いと怒声が交錯する。ここは情報の交差点だった。
源次は薬籠を隅に置き、安酒を一杯頼んで腰を下ろした。表情はあくまで穏やかで、耳だけを鋭敏に働かせる。
「徳川様は近頃、羽振りが良いらしい」「いやいや、武田の圧力がきつくて、家中はピリピリしているさ」
断片的な言葉が飛び交い、源次の頭の中で整理されていく。岡崎は表面の繁栄の裏で緊張に満ち、どこか張りつめていた。
やがて、隣に座ったみすぼらしい浪人が、甲斐訛りの混じる声で愚痴をこぼした。衣は擦り切れ、顔には疲労の影が濃い。
「……ちくしょう。俺は命を張って戦ったのによ。武田の家中じゃ、所詮使い捨ての駒だ」
源次は、さりげなく盃を寄せ、酒を注いだ。
「遠い国からお越しか。甲斐のご出身で?」
「おうよ……もう帰る気もねえがな」
浪人は唇を湿らせると、徐々に舌が軽くなった。酒の勢いも手伝って、武田の内情を語り始める。
「俺ぁ北の砦にいた。井伊の奴らを叩きのめした将のもとでな……」
その言葉に、源次の意識が鋭く反応した。表情は変えず、心の中だけで緊張が走る。
「ほう、武勇の誉れ高い将がおられたと」
「おう、新太様よ。井伊じゃ鬼神のように言われてるらしいが、あのお方は違う」
浪人の目が潤むように細められ、声に熱がこもる。
「あのお方は、俺たちみてえな下っ端の命を、誰よりも大事にしてくださるお方だ。戦場じゃ決して無駄死にをさせねえ。飯も、薬も、真っ先に兵に回す。あんな将、他にいやしねえ」
「……ほう」
源次はただ頷き、酒を口に運んだ。だが心の奥底では、別の激震が走っていた。
(新太……あの男が、そんな将だったのか。戦場で見せた猛々しさとは、まるで別人だ)
浪人はさらに言葉を続けた。
「けどよ……血筋のせいで、家中じゃ肩身の狭い思いをしておられる。信玄公の御落胤なんて言われて、陰で笑う連中もいる。それでも、新太様は腐らねえ。俺たち兵を守るため、いつだって先頭に立ってくださる」
(なるほど。だから彼は孤独なのか)源次は心の中で、前話で見た新太の姿と目の前の浪人の言葉を繋ぎ合わせていた。
「だからこそ……俺は命を張れるんだ。新太様のためなら死んでもいい。そう思ってる奴は、武田にゃ山ほどいる」
その声には、誇りと憧憬が入り混じっていた。
源次は盃を置き、穏やかに微笑んだ。
「よい主君に仕えておられたのですな」
浪人はうなずき、また酒をあおった。
源次は心中で静かに呟く。
(ただの猛将じゃない。あれは……人を惹きつける将の器だ。だが、それなら尚更おかしい)
歴史研究家としての疑問が、彼の頭を支配する。
(これほどの武勇と人望を持つ男が、なぜ歴史に名を残さなかった? 井伊谷という辺境だけでなく、岡崎の酒場ですら噂になるほどの存在が、なぜ正史から完全に抹消されている? これは……単なる不遇ではない。何者かが、意図的に彼の存在を歴史から『消した』としか考えられない)
敵ながらあっぱれ。だが、だからこそ厄介な敵だ。新太という男の存在は、自分が考えていた以上に、この歴史の大きな鍵を握っている――源次はその確信を胸に、夜の喧騒の中に身を沈めた。
この時、源次はまだ知らなかった。
その名が、いずれ井伊と徳川、そして天下の行方を左右するほどの重みを持つことを。