第51節『武田の猛将』
第51節『武田の猛将』
轟音と血飛沫。
北の砦――。
井伊領との国境にそびえるその砦の前では、斥候として侵入してきた井伊方の部隊が、まるで落ち葉のように散っていた。
その中心に立つは、一振りの大槍を軽々と操る若武者。
名は新太。
長柄の槍を片手で振り抜くたび、三人、四人の敵兵がまとめて吹き飛ぶ。
その姿は獣のごとく荒々しく、しかし一挙一動に淀みはなく、洗練された武芸の冴えを帯びていた。
「ぐあっ!」「こ、これが……赤備えか!」
井伊兵たちの叫びも空しく、新太の眼光は冷徹に戦場を見渡していた。
「下がれ。命惜しければ、二度とここへは来るな」
低く放たれたその声に、怯えた敵兵たちは蜘蛛の子を散らすように退き、戦場は静寂を取り戻す。
新太は深呼吸ひとつで槍を納めた。
しかし彼が真っ先に向かったのは、敵ではなく自軍の兵のもとである。
「おい、大丈夫か」
「わ、若……かすり傷にございます」
血を流す足軽の肩を、自ら布で縛る。
「ふん、情けない顔をするな。これくらいで倒れるものか」
「はっ……!」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その手つきは驚くほど丁寧だった。
兵の顔に安堵が浮かぶと、新太は立ち上がり、残兵の撤収を的確に指示する。
「負傷者を先に運べ。死体は放置するな。敵も味方も、土に返してやれ」
その言葉に、兵たちは深く頭を垂れた。
「さすがは若だ……」「俺たちが命を預けられるのは、このお方しかおらん」
兵の間から、自然と声が漏れる。
砦へ戻ると、火の囲炉裏を中心に兵たちが輪を作った。
そこに新太も腰を下ろす。身分の差なく、同じ釜の飯を分け合う姿は、この軍勢に独特の空気を生んでいた。
「若、今日の槍さばき、お見事でしたな!」
「井伊の斥候ども、一目散に逃げて行きましたぞ」
兵たちが口々に称えると、新太は鼻を鳴らした。
「褒めても飯は増えんぞ」
笑い声が広がる。この場には、上も下もなかった。
だが、ある兵が悔しそうに口を開いた。
「しかし、先の佐久間川での敗戦は口惜しい限り。まさかあの井伊の小勢に、あれほどの奇策を仕掛けられるとは……」
別の兵も頷く。
「ええ。犬居城で若と刃を交えたという、あの漁師上がりの足軽が指揮を執ったと聞きますが……」
その言葉に、新太の箸が止まった。
脳裏に蘇るのは、あの戦場で出会った一人の男の顔。
(ただの足軽ではなかった。俺の一撃を受け止め、なおも退かぬ胆力……。あの男が、佐久間川の奇策を……?)
心の奥底に、微かなざわめきが生まれる。戦場で幾多の敵を斬ってきたが、忘れられぬ相手は数えるほどしかいない。その中に、あの名も知らぬ井伊の兵は確かに刻まれていた。
「若?」
問いかける兵に、新太は軽く首を振る。
「気にするな。ただの足軽よ」
だが、その声音には確信が宿っていなかった。
夜も更け、兵たちが眠りについた頃。
新太は一人、自室へと戻った。
そこへ、甲冑をまとった伝令が姿を現す。
「北の砦を守りきったとの報、御館様もご満足にございましょう」
言葉は称賛でありながら、口調には冷ややかな棘があった。その視線の奥には、嫉妬と侮蔑が入り混じっている。
「御館様はさらなる戦功を望んでおられる。次の戦でも、存分に働かれよ」
「承知した」
短く答える新太。伝令はそれ以上何も言わず、わずかに肩をそびやかして立ち去った。
残された部屋に、静寂が落ちる。
(俺は、御館様の子でありながら、子ではない……)
壁に掛けられた槍が目に映る。
新太は槍に歩み寄り、その穂先をじっと見つめる。
(父上……俺は、あなたに認められるために戦っているのではない。俺は俺のために槍を振るう。この血に生まれたがゆえに背負わされた宿命を、呪いではなく力に変えるために)
槍を握る拳に、音が立つほど力が込められた。
彼は武田の猛将、新太。だがその背にあるものは、誰からも完全には受け入れられぬ孤独であった。信玄の子でありながら、その母の出自ゆえに歴史の表舞台に立つことを許されず、最強の刃として最も危険な最前線で使い潰される――それが彼の宿命だった。
それでも、彼には戦う理由があった。
「……名も知らぬ井伊の兵よ。次に会う時こそ、真の答えを見せてもらうぞ」
小さく呟いたその声は、夜の闇に溶けて消えた。
新太はただの敵ではなかった。彼もまた、孤立と宿命に抗いながら、自らの戦いを続けていた。
その存在は、源次と鏡合わせのように――。
やがて二人の道が交わる時、物語はさらに大きく動き出すのである。