第50節『影の道へ』
第50節『影の道へ』
直虎から密命を受けたその夜、源次は城下の片隅に借りた隠れ家へと向かった。
昼間の「近侍」としての顔を脱ぎ捨て、今はただ、井伊家の未来を背負う一人の諜報員としての顔があるのみ。
戸を叩くと、中から松葉杖をついた重吉が顔を覗かせた。
「……来たか。直虎様から何かあったと見える」
源次は無言で頷き、部屋に入る。この隠れ家は、直虎の計らいで用意されたものだった。そして重吉は、源次の唯一の協力者として、直虎から直々に密命を受けていた。家中が源次に反発する中、誰の目にも触れずに彼を支援できるのは、戦働きから退き、誰からも警戒されにくい老兵の重吉しかいなかったのだ。
卓の上にはすでに墨と紙が広げられていた。
「今度の相手は……徳川だ」
源次が告げると、重吉は長いため息をついた。
「馬鹿か、お前さん。いや、直虎様もだ。徳川に潜り込むなど、下手をすれば井伊ごと滅ぶぞ」
「それでも、行かねばならない。これは、俺の最初の仕事だ」
源次の真剣な眼差しに、重吉は観念したように肩をすくめた。
「……面白い。乗ってやる。で、どう攻める?」
その瞬間、ふたりの間に「共犯者」としての絆が生まれた。二人の作戦会議が始まる。
その頃、城の本丸では中野直之が一人、縁側で月を見上げていた。
彼の耳にも、源次が直虎に密かに召し出されたという噂は届いている。
「……あの男、今度は何を直虎様に吹き込んだか」
吐き捨てるように呟く。徳川への潜入などという大それた任務を、彼はまだ知らない。だが、井伊家が自分たちの理解を超えた場所で動き始めていることへの焦燥感が、彼の胸を焼いていた。
(忌々しい男よ。だが……あの川での奇襲を見れば、あの男の知恵は本物。万が一、徳川相手に何かを成し遂げでもしたら……)
その時、井伊家はどうなる? そして自分たちの立場は? 不安と、認めたくない期待が、彼の心をかき乱していた。
隠れ家では、源次が紙の上に思考を整理するように書き出していく。
「知るべきは四つ。一つ、軍事。二つ、経済。三つ、政治。そして四つ、諜報――服部半蔵の動きだ」
「言うは易しだ。そんなものをどう探る?」
「潜入する。俺の役目は、それだ」
重吉は顎を撫でた。
「岡崎に入るなら、薬売りが一番だな。どんな家でも病人はいる。怪しまれずに出入りできる」
「旅の薬売りか……」
源次は頷いた。現代の知識が、その有効性を裏付けている。薬箱は情報を隠すのにも最適だ。
「ならば、俺が新たな人間になる必要がある。名も、出自も、すべて偽りの履歴書を作る」
源次は紙に書きつけていく。
名前:佐吉。尾張の薬問屋の手代ということにする。
身の上:師である親方の供で諸国を回った経験がある。
得意な薬:腹痛止め、熱冷まし。口八丁で乗り切る。
「……そこまで細かく決めるのか?」
「こういうのは、ボロが出たときに命を守るんだ。咄嗟に嘘がつけなきゃ、怪しまれて終わりだ」
源次の言葉に、重吉は感心したように頷いた。
やがて、部屋の隅から古びた薬箱を取り出す。
「こいつは昔、俺が世話になった男の形見だ。ちと古いが、岡崎の門をくぐるには十分だろう」
源次はそれを受け取り、重みを確かめた。仄かに薬草の香りがする。
「これなら、いける」
瞳の奥で、確かな光が揺れた。
表舞台では、家臣たちの嫉妬と侮蔑に耐える無能な近侍を演じる。
しかし、ひとたび城を出れば、彼は井伊家の命運を賭けて敵地へ潜入する影となる。
「徳川家康……」
源次は呟いた。
「歴史に名を残す巨人の真実を、この目で暴いてみせる。そして、直虎様を守る道を切り拓く」
重吉は、にやりと笑った。
「よし、若造。その影の道、とことん付き合ってやろうじゃねえか」
二人の視線が交わる。
それは、表の歴史には決して記されることのない、壮大な諜報の旅路が幕を開けた瞬間であった。