第5節『赤い炎』
第5節『赤い炎』
夜明けの光が、丘の上に立つ源次の顔を照らした。
長い夜を一睡もせず過ごしたせいで、目の下には濃い影が落ちている。だが視界に広がる村は、何事もなかったかのように穏やかだった。
茅葺き屋根の家々からは煙が立ちのぼり、畑を耕す農夫の姿も見える。犬の吠える声、井戸端で水を汲む女の笑い声。まるで昨日の「警告」など幻だったかのように。
源次は、喉の奥にわずかな希望を覚えた。
「……もしかして、何も起きないんじゃないか」
あの異様な胸騒ぎも、武田軍襲来の史実も、ただの夢で終わってしまうのではないか――。
その甘い幻想は、あまりに脆かった。
最初に気づいたのは、鳥だった。
西の森から、一斉に羽ばたく音が響く。白い鷺も、黒い烏も、雀すらも。尋常ではない数の群れが、空を覆うように舞い上がった。
次に、地面。
足裏に、微かな震動が伝わってくる。小さな地震かと思った。だが違う。間断なく続き、次第に強まる。耳ではなく骨に響くその震えは、馬の蹄の群れが大地を叩く音だった。
「……来る」
呟いた瞬間、視界の端に立ち昇る細い煙があった。
岬の見張り台だ。狼煙。しかも一筋ではない。すぐに二筋、三筋と増え、やがて形を乱し、黒く濁った煙へと変わった。
源次の背筋を氷の刃が撫でた。
「来た……!」
血の気が一気に引き、膝が震える。村を襲う「歴史の津波」が、ついに押し寄せてきたのだ。
源次は丘を駆け下りた。
喉が焼けるほどに息を吸い、石に足を取られて転げ落ちそうになりながらも、ただ走った。
しかし村に着いた時、全ては手遅れだった。
村の入口。
昨日、自分を狂人扱いして笑っていた若者が、槍で胸を貫かれて倒れていた。目を見開いたまま絶命しており、その瞳には「信じられない」という色が焼き付いたまま凍りついていた。
地獄は、そこから始まっていた。
村の中に溢れていたのは、武田の菱紋を染め抜いた旗差物を背負った足軽たちだった。
彼らは列を乱し、笑い声を上げながら、家々へと雪崩れ込んでゆく。火を放つ者。女を追い立てる者。金品を漁る者。
そこに戦の緊張も規律もなかった。あるのはただ、乱取り――機械的で日常的な蹂躙の作業だった。
囲炉裏の火で魚を焼いていた老婆が、背後から突き飛ばされ、灰の中に崩れ落ちる。兵は鼻で笑い、そのまま鍋ごと持ち去った。
昨日、塩を分けてくれた行商人は、荷を奪われ、なお必死に取り返そうとしたところを斬り伏せられる。腹から血を噴きながら、商人は己の荷車に手を伸ばしたまま絶命した。
子どもが泣き叫び、母の袖に縋りつく。
その母は髪を乱され、引きずられながら納屋の奥へ連れ込まれていく。兵の手は容赦がない。女の抵抗など、虫を払う程度のことにしか見えていない。
源次の胃がひっくり返る。吐き気が喉をせり上げ、口の端から胃液が滴った。
それでも目を逸らせない。
脳裏に浮かぶのは、史書に記された一文だった。
「――武田軍の乱妨取りは徹底していた」
たった一行の記述。乾いた文字。
だが今、その一行が、目の前の血と炎と絶叫として現実に具現化している。
「これが……歴史……?」
源次の震える呟きは、炎にかき消された。
家々が次々と燃え上がる。屋根が軋み、柱が崩れる音が耳を貫く。燃えた木材の匂いに混じり、血の鉄臭さ、脂が焦げる悪臭が鼻を突いた。
兵の鎧が擦れ合う金属音、槍が突き刺さる肉の鈍い音、泣き叫ぶ声、怒号。
それらが渾然一体となって、村を地獄の坩堝に変えていた。
源次は納屋の影に身を潜めた。
見つかれば自分も殺される。だが見てしまう。
昨日、井戸端で笑っていた娘が、今は裸足で逃げ惑い、兵に髪を掴まれて引き倒される。
畑で鍬を振るっていた老人は、刃を受けて膝をつき、息子の名を呼びながら血の海に沈む。
世界が朱色に染まっていく。
炎の朱、血の朱。
それは絵巻でも映画でもない、生々しい現実だった。
源次は気づく。
本の中では、誰も悲鳴を上げなかった。
誰も泣き叫ばなかった。
文字の行間には血も、肉の焦げる臭いも、骨の砕ける音も存在しなかった。
だが現実にはある。
五感のすべてを蹂躙する「生」が、そこにある。
「……俺は、ただの傍観者だ」
膝を抱え、燃え盛る村の中心で呆然と立ち尽くす。
恐怖も、悲しみも、怒りも――すべてが麻痺していた。
家々は燃え落ち、村は巨大な炎の墓標と化していた。
赤い光が源次の顔を照らし出す。炎に照らされた彼の瞳は、もはや感情を映さない虚ろな鏡でしかなかった。
「本の中では……誰も、悲鳴を上げなかったのに……」
その気づきが、彼の胸を引き裂く。
史実と現実の乖離。知識と地獄の断絶。
源次は呆然と炎を見つめたまま、己の存在の意味すら見失っていた。
――歴史の「傍観者」として。