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第49節『最初の仕事』

第49節『最初の仕事』

 昨夜、孤独な主君の姿を目の当たりにし、魂の決意を固めた源次は、翌朝、自ら直虎の私室へと出向いた。

 まだ早い刻限であったが、彼女はすでに文机に向かい、領内の検地に関する書状に目を通していた。


 「源次か。どうした」

 顔を上げた直虎の目には、わずかな疲労の色が浮かんでいる。昨夜の孤独な姿が、源次の脳裏に蘇った。

 彼は深く頭を下げ、静かだが揺るぎない声で告げた。

 「直虎様。私に、御役目をお与えください。この源次の才が、井伊家にとって真に益となることを、家中すべての者に示せるような御役目を」


 その言葉に、直虎は筆を置いた。

 源次の瞳に宿る光が、昨夜までの彼とは違うことを悟る。そこには、ただの忠誠心だけではない、何かを背負った者の覚悟があった。

 直虎の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 「……そなたの覚悟、しかと受け取った。ならば、丁度よい仕事がある」


 彼女は立ち上がると、壁に掛けられた一枚の地図を広げた。駿河、遠江、そして三河国――岡崎城まで描かれた詳細な地図である。

 直虎の白い指が、その一点を突いた。

 「源次。そなたに、最初の密命を与える」


 岡崎。徳川家康の居城。

 部屋の空気が一変した。源次は息を呑む。

 これは、家中の嫉妬を黙らせるどころではない。井伊家の命運そのものを左右する仕事だ。


 直虎の声が、静かに響く。

 「今、井伊が生き残る道は限られておる。没落する今川に殉じるか、強大な武田に呑まれるか……。どちらも滅びの道じゃ」

 彼女は源次を真っ直ぐに見据えた。

 「残された道は一つ。まだ小さいが、侮れぬ狼……三河の徳川と手を結ぶこと。だが、そのためには知らねばならぬことがある」

 その言葉は、昨夜源次が思い描いた戦略と、奇しくも一致していた。


 「来るべき同盟相手として、徳川家が真に信頼に足るか、その実情を探ってまいれ」

 言葉の一つひとつが、源次の胸に重く突き刺さる。

 「徳川家康という男が、信じるに足る器か。その家臣団は一枚岩か。井伊の未来を託せるだけの力があるのか。そなたの目で、耳で、その肌で確かめてくるのじゃ」


 それは、源次が抱いた覚悟を試すかのような、あまりにも巨大な任務だった。


 「これは、見つかればそなたの首が飛ぶだけでは済まぬ。井伊と徳川の戦の火種となるやもしれぬ、危険な賭けじゃ」

 直虎の声は重く沈む。

 「それでも……やるか?」


 源次は一瞬、唇を噛んだ。

 だがすぐに、彼の内心で武者震いにも似た歓喜が爆ぜた。

 (徳川家康の正体を探れ、だと……!? これだ…これこそが、俺がこの時代に来た意味だ!)

 彼の脳裏に、転生前の書斎の光景がフラッシュバックする。埃っぽい古文書、拡大鏡のレンズの向こうに浮かび上がった「元信、三河にて竜の玉座を継ぐ」という一文。

 (俺が生涯を賭けて追い求めた、あの異説の真偽を確かめられるのか!)

 世に伝わる歴史では、徳川家康は今川家の人質だった松平元康その人とされる。だが、源次が信奉する説は違った。

 (この物語で採用している説はこうだ――桶狭間で今川義元が討たれ、主を失った三河が混乱に陥ったあの時、本来の当主である松平元康は命を落とした。そして、その混乱に乗じて、彼と瓜二つの容姿を持つ世良田元信という謎の男が密かに入れ替わり、三河の主の座を奪った。それが、今の徳川家康だ、と)

 (学界で笑われた俺のライフワーク。その真偽を、この目で確かめられるのか!)

 これは単なる諜報任務ではない。歴史研究家としての魂が、生涯を賭けて追い求めた謎への挑戦状だ。

 (推しを守るため、そして俺自身の知的好奇心を満たすため…こんなに胸が躍る仕事が他にあるか!)

 迷いは、一片もなかった。


 「御意」

 源次は、深々と頭を垂れた。その声は、抑えきれない興奮でわずかに震えていた。

 「この源次、直虎様の手足となり、影となりて、必ずや徳川の腹の内を探ってまいります」


 直虎の顔に、満足の色が浮かんだ。

 「頼んだぞ。これこそが、そなたにしかできぬ『最初の仕事』じゃ」

 その言葉は、二人の間に絶対的な信頼の証として刻まれた。

 家中の反発を乗り越え、井伊の未来を切り拓くための、危険な一歩が今、踏み出されたのである。

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