第48節『孤独な主君』
第48節『孤独な主君』
与えられた自室に戻っても、源次の心は静まらなかった。
かつての仲間であった足軽たちの下卑た言葉が、耳の奥で不快な残響となって渦巻いている。だが、彼が心を痛めていたのは、自身への侮辱ではなかった。
(俺への嫉妬や憎悪は、いずれ直虎様への批判に繋がる……)
素性の知れぬ男を寵愛する、未熟な女領主――。
中野直之のような忠臣でさえ源次を危険視するのだ。他の家臣たちは、いずれそう囁き、直虎の権威を貶めようとするだろう。自分の存在が、敬愛する主君をさらに孤立させている。その事実が、鉛のように重く胸にのしかかった。
(守るために側にいるはずが……逆に、苦しめているのか……?)
やるせない思いに駆られ、源次は部屋を抜け出した。
月明かりだけが頼りの庭を漫然と歩く。虫の声だけが、やけに大きく響いていた。
館の外縁を回り、庭に面した一角へ差し掛かった時、彼はふと足を止めた。
縁側に、人影があった。月の光に照らされて浮かび上がったその姿は、井伊直虎だった。
昼間の凛とした鎧姿ではない。白い小袖一枚をまとい、ただ静かに夜空を見上げている。
その横顔に、領主としての威厳はなかった。
あるのは、家中の重圧、先の見えぬ不安、そして誰にも分かち合えぬ深い孤独の色。
やがて、彼女の唇から小さな吐息が漏れた。
「……はぁ」
か細く、頼りないため息。
その音が、源次の心を鋭く抉った。あれは、評定で見せる厳しい顔の裏に隠された、彼女の魂の叫びそのものだった。
(ああ……この人は、こんなにも一人で戦っておられたのか)
源次の中で、何かが決定的に変わった。
これまでは「推し」を守りたいという、どこか一方的な情熱だった。だが、違う。
今、目の前にいるのは、ただ守られるべきか弱い存在ではない。共に戦い、その重荷を分かち合うべき、孤独な主君なのだ。
(見ているだけでは駄目だ。嘲りや嫉妬に耐えているだけでは、何も変わらない)
拳を固く握りしめる。
(俺がすべきことは、この時代の武士のように槍働きで功を立てることじゃない。そんなものは中野殿に任せればいい。俺にしかできないことがあるはずだ)
彼の脳裏で、歴史研究家としての知識と現代人としての思考が高速で回転を始めた。
(この時代の人間は、目の前の戦、目先の領地に囚われている。だが俺は違う。俺は歴史の流れを知っている。武田、今川、そして徳川…各大名の動きと思惑、その裏にある弱点や欲するものを、俺は知っているんだ)
(そうだ。俺がすべきことは、槍ではなく『情報』で戦うこと。敵の意図を先読みし、外交の駆け引きを有利に進め、井伊家が常に二手三手先を行けるように立ち回る。武功ではなく、調略と交渉で井伊家の価値を高めるんだ)
(そのためには、まず徳川との同盟を成功させなければならない。いや、ただ同盟を結ぶだけじゃない。徳川にとって、井伊が決して手放すことのできない『価値ある存在』だと認めさせる。圧倒的な結果――それは、敵の首級じゃない。この外交交渉を、誰もが予想しなかった形で成功させることだ)
理屈はそうだ。だが、なぜそこまでしなければならないのか。答えは一つしかない。
(歴史がどうとか、天下がどうとか、そんなことはどうでもいい。俺はただ、あの人のため息を、もう聞きたくないだけだ。あの孤独な背中を支えたい。あの人に笑っていてほしい。理屈じゃない。俺の魂が、そう叫んでいるんだ!)
(俺の力を認めさせ、直虎様の決断が正しかったと証明するんだ。そうでなければ、この人の孤独は永遠に晴れない)
それはもはや、ファンの誓いではなかった。
一人の家臣として、一人の男としての、魂の決意だった。
源次はその場を静かに離れた。これ以上、彼女の聖域に踏み込むことは許されない。
だが、彼の胸には燃えるような覚悟が宿っていた。
冷たい夜気の中、その決意は鋼のように硬く、そして熱かった。
この孤独な主君を救うためなら、どんな非情な道をも歩んでみせる。
月は静かに、名もなき家臣の覚悟を見守っていた。