第47節『嫉妬の炎』
第47節『嫉妬の炎』
源次が直虎の近侍に抜擢されて数日。
井伊谷城の空気は、目に見えぬ棘を含んでいた。
廊下を歩けば、古参の家臣たちの視線が冷ややかに背中に突き刺さる。彼らにとって、漁師上がりの源次は井伊家の秩序を乱す異物でしかなかった。
その日も、源次は評定の間で直虎の背後に控えていた。
墨を擦り、書状を整える。ただそれだけの所作にも、広間に座す家臣たちの嫉妬が突き刺さる。
「……ふん、漁師上がりが姫様の側に侍るとはな」「槍働きではなく、口先三寸の功で成り上がるとは、武士の風上にも置けぬ」
わざと聞こえるように放たれる囁きは、源次の耳を素通りはしない。
だが、彼は表情一つ変えなかった。ここで感情を見せることは、直虎の決断に泥を塗ることになる。今はただ、耐えるしかなかった。
その夜、源次は直虎の私室に呼ばれた。
昼間の評定で意図的に無視された彼の意見を、直虎が改めて聞くために設けた場だった。しかし、その事実が新たな火種となることを、彼はまだ知らなかった。
その噂は、すぐに城内を駆け巡った。傷の療養を続ける重吉の耳にも、見舞いに来た若い足軽によって届けられた。
「源次殿が、また姫様のお部屋に……」
重吉は長いため息をつき、窓の外の闇を見やった。
「……姫様も、ちと急ぎすぎじゃ。あの若造の才は本物じゃが、それを認めぬ者どもが黙っておるまい。嵐にならねばよいが……」
老兵は源次の身を案じていた。急激な出世は、時として命取りになる。そのことを、彼は戦場の経験から痛いほど知っていた。
城内の片隅、酒を酌み交わす武士たちの間で、毒を含んだ噂が生まれていた。
「……聞いたか。今宵もまた、あの男が姫様の私室に上がったそうだ」「夜分に、密室で二人きりとは……」「まさか……」
言葉は次第に熱を帯び、嫉妬の炎は下卑た憶測へと姿を変えようとしていた。
その時、それまで黙って酒を呷っていた中野直之が、杯を音高く卓に置いた。
「――口を慎め」
低く、しかし有無を言わせぬ声に、座の空気が凍り付く。
「直虎様への不敬、度が過ぎるぞ。たとえ冗談であろうと、その言葉は井伊家そのものを汚すものと知れ」
武士たちは慌てて口をつぐみ、頭を下げた。
だが、直之は続けた。その矛先は、噂を口にした者たちではなく、その元凶に向けられていた。
「しかし、このような下らぬ噂が立つこと自体が問題なのだ! すべては、あの素性の知れぬ男が直虎様の側に侍るがゆえ! あの男こそが、井伊家の誇りと秩序を乱す元凶よ!」
彼の胸中にあるのは井伊家を思うが故の忠義と、源次という存在への政治的な警戒心。近侍への抜擢は、直之にとって自らの面目を潰されたも同然の屈辱であり、その感情が源次への敵意を燃え上がらせていた。
一方、別の場所では、決死隊に参加した若武者たちが声を潜めていた。
「中野様は、まだ源次殿を認めておられぬようだ」
「無理もない。我らとて、あの策を目の当たりにするまでは半信半疑だったのだからな」
「だが、俺たちは知っている。あの御方の力がなければ、井伊に明日はない。今は耐える時だ。我らが源次殿の盾とならねば」
彼らは拳を握りしめた。公然と源次を支持すれば、家中の亀裂を深めるだけ。今はただ、来るべき時に備え、力を蓄えるしかなかった。
源次が直虎の私室を辞したのは、夜も更けてからだった。
廊下を歩いていると、物陰から数人の足軽が姿を現した。かつて共に汗を流した仲間たちだ。だが、その目に親しさはなく、ただ冷たい光が宿っていた。
「源次殿。ずいぶんとご出世なされたようで」
嫌味のこもった言葉に、源次は足を止めた。
「皆のおかげだ」
静かに返すが、相手は鼻で笑う。
「俺たちとは住む世界が違うようだ。……直虎様の閨で、どんな手練手管を使ったのか、ご教授願いたいもんだな」
その言葉に、源次の表情から色が消えた。
だが、拳を握りしめ、怒りを必死に飲み込む。ここで騒ぎを起こせば、噂を肯定するだけだ。
「……失礼する」
背を向けて歩き出す源次の背中に、嘲笑が突き刺さった。
冷たい夜風が、彼の心を容赦なく撫でていく。嫉妬という名の炎は、彼の想像以上に深く、広く、城内に燃え広がっていた。