表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/300

第47節『嫉妬の炎』

第47節『嫉妬の炎』

 源次が直虎の近侍に抜擢されて数日。

 井伊谷城の空気は、目に見えぬ棘を含んでいた。

 廊下を歩けば、古参の家臣たちの視線が冷ややかに背中に突き刺さる。彼らにとって、漁師上がりの源次は井伊家の秩序を乱す異物でしかなかった。


 その日も、源次は評定の間で直虎の背後に控えていた。

 墨を擦り、書状を整える。ただそれだけの所作にも、広間に座す家臣たちの嫉妬が突き刺さる。

 「……ふん、漁師上がりが姫様の側に侍るとはな」「槍働きではなく、口先三寸の功で成り上がるとは、武士の風上にも置けぬ」

 わざと聞こえるように放たれる囁きは、源次の耳を素通りはしない。

 だが、彼は表情一つ変えなかった。ここで感情を見せることは、直虎の決断に泥を塗ることになる。今はただ、耐えるしかなかった。


 その夜、源次は直虎の私室に呼ばれた。

 昼間の評定で意図的に無視された彼の意見を、直虎が改めて聞くために設けた場だった。しかし、その事実が新たな火種となることを、彼はまだ知らなかった。


 その噂は、すぐに城内を駆け巡った。傷の療養を続ける重吉の耳にも、見舞いに来た若い足軽によって届けられた。

 「源次殿が、また姫様のお部屋に……」

 重吉は長いため息をつき、窓の外の闇を見やった。

 「……姫様も、ちと急ぎすぎじゃ。あの若造の才は本物じゃが、それを認めぬ者どもが黙っておるまい。嵐にならねばよいが……」

 老兵は源次の身を案じていた。急激な出世は、時として命取りになる。そのことを、彼は戦場の経験から痛いほど知っていた。


 城内の片隅、酒を酌み交わす武士たちの間で、毒を含んだ噂が生まれていた。

 「……聞いたか。今宵もまた、あの男が姫様の私室に上がったそうだ」「夜分に、密室で二人きりとは……」「まさか……」

 言葉は次第に熱を帯び、嫉妬の炎は下卑た憶測へと姿を変えようとしていた。

 その時、それまで黙って酒を呷っていた中野直之が、杯を音高く卓に置いた。

 「――口を慎め」

 低く、しかし有無を言わせぬ声に、座の空気が凍り付く。

 「直虎様への不敬、度が過ぎるぞ。たとえ冗談であろうと、その言葉は井伊家そのものを汚すものと知れ」

 武士たちは慌てて口をつぐみ、頭を下げた。

 だが、直之は続けた。その矛先は、噂を口にした者たちではなく、その元凶に向けられていた。

 「しかし、このような下らぬ噂が立つこと自体が問題なのだ! すべては、あの素性の知れぬ男が直虎様の側に侍るがゆえ! あの男こそが、井伊家の誇りと秩序を乱す元凶よ!」

 彼の胸中にあるのは井伊家を思うが故の忠義と、源次という存在への政治的な警戒心。近侍への抜擢は、直之にとって自らの面目を潰されたも同然の屈辱であり、その感情が源次への敵意を燃え上がらせていた。


 一方、別の場所では、決死隊に参加した若武者たちが声を潜めていた。

 「中野様は、まだ源次殿を認めておられぬようだ」

 「無理もない。我らとて、あの策を目の当たりにするまでは半信半疑だったのだからな」

 「だが、俺たちは知っている。あの御方の力がなければ、井伊に明日はない。今は耐える時だ。我らが源次殿の盾とならねば」

 彼らは拳を握りしめた。公然と源次を支持すれば、家中の亀裂を深めるだけ。今はただ、来るべき時に備え、力を蓄えるしかなかった。


 源次が直虎の私室を辞したのは、夜も更けてからだった。

 廊下を歩いていると、物陰から数人の足軽が姿を現した。かつて共に汗を流した仲間たちだ。だが、その目に親しさはなく、ただ冷たい光が宿っていた。

 「源次殿。ずいぶんとご出世なされたようで」

 嫌味のこもった言葉に、源次は足を止めた。

 「皆のおかげだ」

 静かに返すが、相手は鼻で笑う。

 「俺たちとは住む世界が違うようだ。……直虎様の閨で、どんな手練手管を使ったのか、ご教授願いたいもんだな」

 その言葉に、源次の表情から色が消えた。

 だが、拳を握りしめ、怒りを必死に飲み込む。ここで騒ぎを起こせば、噂を肯定するだけだ。

 「……失礼する」

 背を向けて歩き出す源次の背中に、嘲笑が突き刺さった。

 冷たい夜風が、彼の心を容赦なく撫でていく。嫉妬という名の炎は、彼の想像以上に深く、広く、城内に燃え広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ