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第46節『近侍抜擢の波紋』

第46節『近侍抜擢の波紋』

 源次が直虎の近侍に抜擢された翌朝。

 井伊谷城の空気は、見えぬ火種がそこかしこに散らばっているように、張りつめていた。

 昨日の評定で直虎が下した決断――漁師上がりの足軽を一気に城主の側近とするという前代未聞の人事は、家臣団の心中に深い波紋を広げていた。

 源次は、いつもの粗衣から慣れぬ直垂に着替え、初めて「近侍」として直虎の座所に控えた。机の上に積まれた書状を整理し、墨を擦り、筆を整える。

 (推しの隣で、こうして役立てる……それだけで生きてる甲斐がある!)

 胸の奥で歓喜が弾けそうになるが、それを顔に出せば軽薄に映る。源次は必死に感情を押し殺し、真剣な面持ちを保った。

 直虎もまた、源次の緊張を感じ取っていた。

 「慣れるまでは骨が折れよう。だが、そなたにしか頼めぬこともある」

 その言葉は、源次にとって最大の報いであった。


 しかし、城の廊下を歩けば、彼を取り巻く空気は一変する。

 すれ違う足軽たちは、わざと視線を逸らし、無言で道を譲らぬ。源次が避けねば、肩がぶつかるほどに。

 ある時、中野直之が正面から現れた。源次が礼をして道を空けようとした瞬間、直之は敢えて強く肩をぶつけてきた。

 「……失礼」

 吐き捨てるような声音。謝罪ではなく、明らかな侮蔑の言葉。

 源次は唇を噛みしめ、黙ってその場を通り過ぎた。武士の世において、血筋と家格は何よりも重い。どれほど功を立てようと、漁師上がりの成り上がり者が譜代の自分たちと肩を並べること自体が、彼らにとっては耐え難い屈辱なのだ。


 昼餉の膳が運ばれてきたとき、異様な音がした。口に含んだ飯が、ざり、と歯に当たる。砂だ。わざと混ぜられている。

 源次は顔をしかめず、ただ静かに飲み込んだ。

 (こんなもの……俺の推しの隣に立てるなら安い代償だ)

 背後で、かつての足軽仲間たちがひそひそと囁く。

 「漁師風情が姫様を誑かしたらしい」「槍もろくに振るえぬくせに、口先三寸で成り上がりおって」

 笑い混じりの陰口は、わざと聞こえるように響いた。彼らにとって、源次の「知恵」による勝利は、汗と血で手柄を立てる武士の道を汚す、卑怯なやり口にしか見えていなかった。


 だが、その日の夕刻。彼の部屋の前に、小さな握り飯と一輪の野花がそっと置かれていた。

 差出人の名はない。だが、源次には分かった。決死隊で共に戦った若武者か、あるいは訓練改革に感謝していた足軽か。公然と味方はできないが、影で彼を支持し、その身を案じている者たちがいる。その事実が、彼の胸を温かくした。


 やがて評定の日が来た。

 直虎の前に重臣たちが揃い、領地経営の方策を論じる。源次は一歩下がって控え、必要に応じて文書を整えていた。

 その最中、直虎がふと彼に目を向ける。

 「源次。そなたの考えを聞かせよ」

 城主の声が広間に響く。一瞬、場が凍りついた。

 源次は静かに息を整え、口を開こうとした。しかし――

 咳払いが、広間のあちこちで立て続けに響いた。まるで合図したかのように。

 「……こほん」「ごほっ、ごほっ」

 直虎が眉をひそめる間もなく、隣り合う家臣同士がひそひそと囁き合い始めた。源次の声は、かき消される。

 それは、源次個人への反発であると同時に、彼を重用する直虎への無言の抵抗でもあった。

 「……」

 源次は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。


 その夜。

 評定を終えた直虎は、独り座敷に残っていた。

 蝋燭の灯が揺れ、広間に落ちる影は一つきり。

 (私のせいで……源次を針の筵に座らせてしまったのか)

 抜擢の決断が家中の和を裂き、家臣たちの不満を一身に引き寄せている。それは、源次の力を試すより先に、彼を孤立させていた。

 (私は……あの者を守るつもりで、かえって苦しめている)

 領主としての責任と、女としての孤独が胸を締めつけた。

 一方その頃、源次は中庭に出て月を仰いでいた。

 遠く、廊下の向こうに直虎の姿が見える。背を向け、月を見上げるその肩は、以前より小さく、寂しげに映った。

 (俺のせいで……推しを孤独にさせているのか)

 出世は夢のようだった。だが、その代償は、敬愛する人をさらに孤立させることだった。

 (守るためにここにいるはずなのに……逆に苦しめている)

 源次は拳を握りしめ、静かに誓う。

 (認めさせてみせる。俺の力を、家中すべてに。推しを孤独にはさせない。俺が、この井伊を守るんだ)

 夜風が吹き、月の光が彼の決意を照らした。

 こうして二人の孤独は、深い絆へと変わり始めていた。

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