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第45節『一つの賭け』

第45節『一つの賭け』

 その日の午前、緊急の評定が開かれた。

 広間には家中の重臣・中老たちがずらりと並び、畳の上には張り詰めた空気が満ちている。

 直虎は上座に静かに座し、背筋を伸ばして一同を見渡した。議題は、先の佐久間川の戦いにおける論功行賞と今後の体制。

 

 まず、決死隊に参加した若武者や足軽たちの名が一人ずつ読み上げられ、ささやかながらも感状と金子が与えられた。戦死者ゼロという異例の戦果に対し、広間からは温かい拍手が送られる。

 だが、誰もが本当に注目しているのは、この奇策を立案し、指揮した男への沙汰だった。

 やがて、直虎はゆるやかに口を開いた。

 「――そして、此度の第一等の功は、源次にある」

 広間がしんと静まり返る。

 「源次には、士分に取り立ての上、禄百石を与える」

 その言葉に、広間はどよめいた。

 源次自身も、耳を疑った。

 (禄百石!? 嘘だろ……。足軽が一生かかっても稼げない額だ。それどころか、そこらの地侍や譜代の家臣よりも多いじゃないか。これは……もうただの恩賞じゃない)

 

 そして、直虎はさらに続けた。

 「最後に、一つ。大事な沙汰を告げる」

 直虎は一度、末席に控える源次に視線を送り、そして家臣たちに向き直ると、はっきりと告げた。

 「――これより、源次を我が近侍とする」


 一瞬、場の空気が凍りついた。

 源次は激しく動揺した。

 (近侍……!? 昨夜、あれほど「漁師の仮面を被れ」と命じられたはず! これではまるで、姫様が俺に誑かされたと公言しているようなものじゃないか!)

 「……今、何と……?」「禄だけでなく、近侍にまで?」

 ざわり、と小波が広がる。やがてそれは大波となり、広間を騒然と揺さぶった。

 「馬鹿な! 近侍とは、殿の最も近くに仕える役。武功だけで与えられるものではない!」

 「しかも奴は、元は漁師上がりの足軽……。出自も素性も怪しい!」

 「聞いたことがないぞ! 足軽が一足飛びに侍を飛び越え、当主の側近になるなど!」

 動揺と怒りが渦巻き、畳を叩く音まで響いた。

 その騒ぎを真っ向から断ち切ったのは、中野直之の怒声だった。

 「お待ちくだされ、殿!」

 彼は血相を変えて立ち上がり、上座へと詰め寄る。

 「正気でございますか! あの者は、ただの足軽にすぎませぬ! 出自も知れぬ者を殿の側に置くなど、断じて認められませぬ!」

 広間の空気がさらに膨れ上がる。直之の言葉に賛同する声が次々と飛ぶ。

 「中野殿の言う通りだ!」「これは家中の秩序を乱す暴挙!」「井伊の法度を、殿自ら破るおつもりか!」

 家臣たちの反発は嵐のごとく押し寄せ、広間は混乱の渦中にあった。


 直虎は、その喧噪を冷ややかな眼差しで見渡していた。彼女はこの反発を、全て織り込み済みだった。

 「法度か」

 その一言で、広間はぴたりと静まる。

 「ならば問おう。法度が、この井伊を救うてくれるのか?」

 声は低く、しかし鋭く、家臣たちの胸を射抜いた。

 「今、我らは風前の灯火。旧来の慣わしに縋り、滅びを待つつもりか? 私が選ぶはただ一つ――家の存続に最も有効なる才。源次が持つ、潮を読み、風を読む漁師としての稀有な才は、もはや槍働き千人力にも勝る。その知恵を常に我が傍らに置き、井伊の舵取りに活かすのだ」

 彼女は立ち上がり、全員を睥睨する。

 「これは寵愛ではない。井伊が生き残るための策じゃ。この決定に異論は認めぬ」

 その声には、領主としての絶対的な威があった。

 直之の顔は紅潮し、拳を震わせた。しかし、直虎の視線と真正面からぶつかった瞬間、言葉を呑み込んだ。

 (……殿は、本気だ。揺るがぬ……)

 広間を満たす沈黙。やがて、源次の名を呼ぶ声が響いた。

 「源次」

 当主の声音に、源次ははっと顔を上げた。全ての視線が自分に注がれている。

 「……はい」

 その声はわずかに震えていた。

 「そなたの才を、我が傍らにて示せ。井伊のために、己のすべてを尽くせ」

 源次は立ち上がり、深々と頭を下げた。

 「……はっ。この身、この知恵、すべてを井伊のために尽くす所存にございます」

 騒然とする家臣たちの中で、ただ一人、静かに。しかしその姿は、確かな決意を帯びていた。

 その瞬間――井伊家に新たな秩序が生まれた。同時に、禍根と火種もまた芽吹いたのである。


 広間を出た源次は、背後から突き刺さる無数の視線を感じながら、静かに息を吐いた。

 (やっべぇ……俺、完全に嵐の中心に放り込まれたな……)

 だが、不思議と心は定まっていた。

 (でも、推しが賭けてくれたんだ。なら、俺も命を懸ける。これが俺の推し活だ)

 胸の奥で、燃え上がるような誓いを再び抱く。

 源次の歩みは重く、しかし揺らぎはなかった。

 こうして、井伊谷に新たな一幕が幕を開けたのである。

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