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第448節『歴史知識というジレンマ』

第448節『歴史知識というジレンマ』

 自室に戻り、障子を固く閉ざしたとたん、源次は壁に背を預け、その場に崩れるように座り込んだ。

 先ほどの鋼のような覚悟は、一人になった途端、脆く揺らぎ始めている。

 「本能寺」。

 自らの口から漏れたその三文字が、耳の奥で不気味に反響する。

(俺が、やるのか……)

 歴史書の頁が、血で塗られた文字となって脳裏に浮かぶ。

 天正十年六月二日、京本能寺にて、織田信長、家臣・明智光秀の謀反により自刃す――。

 そうだ。歴史は、そう記されているはずだ。ならば、何もしなくてもよいのではないか。時を待てば、魔王は勝手に舞台を去るのではないか。

(傍観しておればいいような気もする。下手に動くことが逆効果になる可能性もあるし。俺はその時を待ち、混乱の中で家康さんを無事に三河へ帰すことだけを考えれば……)

 だが、背筋を走ったのは冷たい悪寒だった。

 本当に?

 どこからか、心の奥底で冷たい声が響く。

 本当に、歴史はお前の知る通りに進むのか?

 はっと息を呑む。自分という存在。井伊谷で生まれ、史実にない井伊水軍を創り、新太という規格外の友を得、長篠の勝利に直接関与したイレギュラー。

 自分の介入が、すでに歴史のを微かに、しかし確実に狂わせているような気がする。そして、それが信長の生に繋がる可能性があるのであれば――その疑念が、静かに、しかし確実に心を支配し始める。

(俺のせいで、信長と光秀の関係が史実と違う形でこじれるかもしれない。あるいは、そのために、史実より早く光秀を遠ざけるかもしれぬ。そうなれば――光秀は動かぬ。動けぬ)

(もし、本能寺の変が起きなかったら? あの男が本当に神のような存在となり、日の本を金色の檻で塗り潰したら? 直虎様の平穏も、家康さんの未来も、全てが失われる……)

 これまでの拠り所だった「歴史知識」という羅針盤が激しく揺らぎ、針が示す先がわからなくなる。

 未来を知る優位性が、逆に最大の不安へと変わったのだ。燭台の炎がひとつ揺れ、頼りない光が彼の不安定な心を映し出す。

(……待つのは、博打だ。あまりに危険な博打だ)

 源次はゆっくり顔を上げた。傍観者の安逸は、もうない。

(ならば、俺がやるしかない。歴史がどう動くか分からぬのなら、俺が歴史を、俺の知る正しい筋書きへと無理やりにでも導くのだ)

 それは、今までよりさらに深い領域への一歩となる。歴史の流れに身を任せるのではなく、自らがその流れを描く、という、恐るべき決意が彼の胸に重く、静かに宿る。

 彼のジレンマは、歴史への挑戦者に変貌するための、最後の引き金となった。

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