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第447節『歴史介入の決意』

第447節『歴史介入の決意』

 信長の顔から、笑みが消えた。

 二人を包んでいた奇妙な共感の空気は霧散し、代わりに、拒絶された絶対者の怒りが、吹きさらしの天主を満たした。風が唸り、むき出しの柱が軋む音が、まるで魔王の声のように響く。

「……古きことわりに縛られる、凡夫か」

 その声は静かだったが、底知れぬ威圧と深い侮蔑を帯びていた。


 源次は、その圧を真っ向から受け止めながらも、怯まなかった。むしろ、わずかに首をかしげ、面白がるかのように返す。

「凡夫……でございましょうか。ですが、もし私が凡夫であるならば、長篠のあの勝利は後世にどう記されましょう。凡夫の策に踊らされた、第六天魔王、と。まあ、それも未来の楽しみでございましょう」

 信長の眉がひそめられた。しかし、その瞳の奥には、怒りよりも危険な興味が灯っていた。

「……戯言か、それとも……」

「戯言か否かもまた、未来次第にございます」

 源次は静かに頭を下げると、それ以上言葉を重ねることなく、一歩下がり、退出の礼を取った。その背中を追う信長の瞳には、冷たさの奥に、確かな好奇の光が残る。(……儂を怒らせたのかと思えば、そうでもない。少なくとも、この男、ただ口が立つだけではないことは確かだ。やはり儂の物差しでは測れぬ不可思議な何かを、持っておる)


 長く暗い階段を、源次は一人で下りていく。一歩、また一歩と下るたびに、信長から放たれた覇気の圧から解放され、ようやく全身の力が抜けていくのを感じた。背中は冷たい汗でぐっしょりと濡れている。

 だが、恐怖よりも、彼の心を支配するのは、別の、灼けつくような感情だった。

(……あの人は、本気だ)

 回廊を歩きながら、思考が巡る。(神になる、だと? あれは破壊だけではないか。人の心も絆も、歴史が積み上げてきた全てのものを、己の価値観だけで塗り潰そうとしている。革命家ではない、ただの傲慢な子供だ)

 脳裏に、安土城下で見た徹底的に管理された町の、あの息苦しさが蘇る。

(あの男を生かしておけば、日の本全土が金色の檻のようになる。直虎様の笑顔も、家康さんの涙も、あの男の気まぐれ一つで、容易く踏みにじられる)


 廊下の窓の外、静かな月が浮かんでいた。月明かりが、彼の顔を青白く照らす。

(……俺は、この歴史を、ただ傍観していてよいのか)

 これまでは、流れに抗わず、その中で最善を尽くすだけだった。だが今、目の前に現れたのは、歴史の流れそのものを破壊しかねない、規格外の「イレギュラー」。

(この男を放置すれば、俺が知る未来――徳川が創る泰平の世――すらも、訪れないかもしれない。いや、俺がこの男の歴史を変えなければならないんだ)

 思考が、最後の一線を超える。

(……そうだ。俺は、俺の知る歴史を、この手で実現しなければならない。いや、違う)


(俺が、この男の歴史を、終わらせるのだ)


 戦場での駆け引きや、外交の謀略ではない。歴史の舞台そのものから、一人の役者を、意図的に退場させる――それは、これまで自らに禁じてきた、神の領域への明確な挑戦だった。

 彼の唇から、自然に、しかし確固たる決意の三文字が漏れた。

「……本能寺」


 もはや歴史知識ではない。これは、これから自らが創り出すべき、未来の事変であった。

 源次の瞳から、それまでの軍師としての光は消え、代わりに、歴史そのものを操ろうとする者の、冷徹で、そしてどこか哀しい光が宿り始める。

 彼の、本当の意味での戦いが、今、静かに幕を開けた。

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