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第446節『天主にて』

第446節『天主にて』

 蘭丸に導かれ、源次は安土城の、天主の最上階へと昇った。

 まだ完成していない天主の最上階。壁も天井も張られておらず、むき出しの柱と梁が、闇の中に巨大な骸骨のように浮かぶ。吹きさらしの床には木屑が散り、風が吹くたびに下層から槌音や職人たちの怒号が響き渡ってきた。

 だが、その混沌の中心に、信長は立っていた。

 鎧も纏わず、湯帷子を羽織っただけの無防備な姿。手には紅い葡萄酒の注がれた洋杯。眼下には、琵琶湖の青と城下町の無数の灯りが、箱庭のように広がっている。

 足音に気づいても振り返らず、静かに言った。

「……来たか、源次」

「見ろ。これが、儂が創りつつある、新しい日の本の『骨格』じゃ」

 源次は隣に並び、景色を見下ろす。壮大な光景だった。しかしその美しさの奥に、彼は言い知れぬ「歪み」を感じた。完璧すぎる秩序の中に、人の営みの混沌や活気はどこにもない。

(……これが、この人の見る景色か)

 信長は、杯に残った葡萄酒を一息に飲み干した。

 そして、静かに語り始める。

「人は愚かよ。目先の欲に溺れ、古い因習に縛られ、互いに争い続ける。儂は、それを壊す。仏も、神も、帝の権威すらも、儂の前では無力と知らしめる」

 瞳には狂気と神性が入り混じった光。

「わしは、神になる。日ノ本の古い理を全て破壊し、わしが新たな理そのものとなるのだ。この未完成の天主こそ、その祭壇じゃ。ここから、新しい世界が始まる」

 源次は絶句した。

 為政者の野心ではない。人間を超えた存在へと昇華しようとする創造主、あるいは破壊神の独白だった。

 この男を生かしておけば、いずれその理不尽な理は、井伊谷へ、そして直虎へと及ぶ。

 井伊谷の穏やかな暮らしも、家康との友情も、この男の気まぐれ一つで、容易く踏みにじられかねない。その未来図が、源次の脳裏に稲妻のように駆け巡った。

 信長は、源次の内なる葛藤を見透かすかのように、にやりと笑った。

「……どうじゃ、源次。面白いであろう、儂の夢は。そなたならば、分かるはずじゃ。この儂の孤独が」

 そっと肩に手を置く。その手は、驚くほど冷たい。

「そなたも、儂と同じ種類の人間よ。このつまらぬ世の、遥か先を見ておる。……共に来い、源次。儂と共に、この天主の完成を、そして新しい神話を創ろうではないか」

 魔王からの、最後で最も甘美な誘惑。

 源次は、冷たい手から伝わる底知れぬ孤独の闇に引きずり込まれそうになる自分を感じた。

 しかし胸には、二つの温かい光があった。

 友の、そして主君の、あの手紙の温もり。

 源次は静かに、しかしきっぱりと手を肩から外す。

 そして魔王の目を、真っ直ぐに見据えた。

 言葉はなかった。だが、その瞳に宿るのは、決して屈さぬ静かな、だが絶対的な拒絶の色だった。

 信長の顔から、笑みが消えた。

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