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第445節『人質として』

第445節『人質として』

 安土城での日々は、静かで、そして息が詰まるような時間だけが、ただゆっくりと流れていった。

 源次の生活は、表向きこそ信長の「客分」として、何不自由のないものだった。

 朝餉には南蛮渡りの菓子が添えられ、昼には望むだけの書物が与えられ、夜には美しい侍女たちが酒を酌する。

 だが、その全てが、見えざる監視の目の中にあった。

 部屋を出れば、必ず蘭丸をはじめとする小姓が影のように付き従い、行動の一つひとつを柔らかく囲い込む。

 言葉を交わせる相手も、信長が許したごく一部の者だけ。それは、鳥籠の中の鳥に最高の餌と止まり木を与えながら、その翼を少しずつ奪っていくような、静かな拘束だった。

 源次はその意図を見抜きながらも、決して牙を抜かれたふりはしなかった。

 与えられた書物を読み耽り、信長に召されれば、驚異的な知識と洞察で天下国家を論じた。

 その弁舌は信長を愉しませ、彼からの寵愛をさらに深めたが、それは源次にとって、生き延びるための綱渡りにほかならなかった。

 (……それでも、生きる)

 豪華な食事も、美しい調度品も、彼の心を慰めることはない。

 彼が求めているのは、故郷の潮の香りと、仲間たちとの他愛もない笑い声――ただそれだけだった。

 そんな日々が続いたある夜。

 月光だけが差し込む静かな部屋で、源次が琵琶湖の闇を眺めていると、障子の向こうからかすかな衣擦れの音がした。

「……源次殿」

 低く押し殺した声とともに、障子の隙間から一巻の巻物が差し入れられる。

 源次は息を殺してそれを受け取った。

 見張りをかいくぐり、ここまで辿り着ける者。それは、服部半蔵の影の一人に違いなかった。

 彼は震える指で巻物を開く。

 そこにあったのは、二枚の書状。

 一通は、家康の筆跡。もう一通は、柔らかく、それでいて芯の通った女の筆。

『源次へ。

 そなたの無事を祈る毎日じゃ。

 信長公の御心、儂にも測りかねる。

 じゃが、そなたの才は時に人を傷つけ、そして己をも深く傷つける。

 決して、自らを責めるな。

 儂はそなたを信じておる。ただ、生きて戻れ。

 友として、そなたの帰りを、いつまでも待っておるぞ。

 家康』

 源次はその手紙を胸に当てた。

 家康らしい言葉の中に、確かな情があった。

 そして次の巻紙を広げる。そこには、懐かしい名が記されていた。

『源次へ。

 城下の竹林は、春に向けてまた若芽を伸ばしております。

 人の心もまた、折れても芽吹くものでしょう。

 貴殿の才は時に人を遠ざけますが、私は知っています。

 その才が人を救うためにあることを。

 どうか己を責めぬよう。

 どれほど遠くにあっても、井伊の里は、いつも貴殿の味方であることを、帰る場所であることを、忘れないように。

 井伊直虎』

 その筆跡には、凛とした強さと、温かな温もりがあった。

 源次の喉が熱くなった。

 (……直虎様…家康さん…俺は、何処にいたって、もうひとりじゃないんだ)

 彼は二つの手紙を重ね、胸の奥に押し当てた。

 その温もりが、乾ききった心にゆっくりと広がっていく。


 翌朝。

 信長の使いとして蘭丸が現れた時、源次の顔には、それまでになかった静かな光が宿っていた。

「上様が、上の間にてお待ちでございます」

 源次は静かに頷き、懐にしまった二通の手紙の温もりを確かめた。

 (この世界で、信じられるものが二つもあることが分かったんだ。こんな幸せなことがあるだろうか。もうこれで十分だ)

 彼は、に囚われた人質ではなくなった。

 友と、主と、己を信じてくれる者のために。

 信長の目を正面から見据え、歴史の渦の中へ踏み出す男の顔となっていた。

 窓の外、金箔の壁が朝陽を受けて輝く。

 その光は、もはや鉄格子の反射ではない。

 次なる戦いの幕開けを告げる、希望の光だった。

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