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第444節『金色の檻』

第444節『金色の檻』

 饗宴という名の審判が終わった翌朝。

 源次は、家康と言葉を交わすことも許されぬまま、織田家の家臣に伴われて、安土城の一室へと案内された。

 その部屋は、彼の想像をはるかに超えていた。

 床には南蛮渡りの分厚い絨毯が敷かれ、壁一面には金箔が惜しげもなく貼られた障壁画。

 窓の外には、手入れの行き届いた庭園が広がり、彼方には琵琶湖の青い水面がきらめいている。

 文机には、上質な唐紙と硯が整えられ、まるで高名な学者を迎え入れるための部屋のようだった。

「――こちらが、源次殿にしばらくお過ごしいただくお部屋にございます。

 上様からの、格別のご厚意にございますれば」

 案内役を務めたのは、信長の寵臣・森蘭丸であった。

 その美貌に似つかわしい完璧な笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥には一切の感情がなかった。

 ただ、冷ややかな光だけが、源次の一挙手一投足を計測するように光っていた。

「何かご不自由がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。

 上様は、貴殿との対話を、何よりお楽しみにされております」

 その言葉は、絹のように柔らかい。

 だが、源次には、その下に隠された棘が、痛いほど分かっていた。

(……厚意、か)

 源次は内心で冷たく笑った。

 部屋は確かに贅を尽くしている。

 だが、障子の影、廊下の角、庭の木立の陰――そこかしこに、人の気配がある。

 彼らは客を守る護衛ではない。

 逃げ出すことを許さぬ、冷徹な監視の目だ。

 源次が、試しに縁側へ一歩足を踏み出そうとした、その瞬間。

 蘭丸は笑みを崩さぬまま、静かな声で言った。

「源次殿。この庭の石の配置は、上様ご自身がお考えになられたもの。

 下手に動かされて、その調和を乱すこと――上様もお望みになりますまい」

 それは、優雅を装った、明確な警告だった。

 ――お前は、この部屋から一歩も出ることは許されぬ、と。

「……承知いたしました。上様のお心遣い、かたじけなく存じます」

 源次は穏やかに笑い、静かに腰を下ろした。

 蘭丸は満足げに一礼すると、衣擦れの音も立てず、部屋を去っていった。

 静寂が戻る。

 一人残された源次は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外に目を向けた。

 そこには、あまりにも美しく、そしてあまりにも窮屈な光景が広がっていた。

 琵琶湖の湖面が陽光を反射し、舟が行き交い、鳥が空を舞っている。

 だが、そのどれほどの自由も、自分には手が届かない。

(……これが、金色の檻か)

 かつて家康に口にした言葉の、真の意味が、今ようやく身に沁みる。

 信長は彼を殺しもせず、鎖に繋ぎもしない。

 ただ、最高の贅沢と敬意を与えることで、牙を抜き、己の掌で転がそうとしているのだ。

 だが、源次の心は折れていなかった。

(面白い。面白いじゃないか)

 その唇に、かすかな笑みが浮かぶ。

(この檻の中からでも、やれることはあるぞ。いや――この檻の中にいるからこそ、見えるものがあるはずなんだ)

 信長の真意。

 織田家中の力学。

 この巨大な城のどこかに潜む、見えざる「亀裂」。

 源次は、この監禁を客人の滞在ではなく、敵中潜入と捉えることにした。

 この安土城の奥底で、信長という男の本性を暴き、その支配の構造を見抜く。

 すべてを理解し、逆手に取って、自らが望む未来を切り拓くために。

 最も危険な情報戦が、今、金色の檻の中で始まろうとしていた。

 窓の外では、陽光に照らされた金箔の壁が、まばゆいほどに輝いている。

 その輝きは、源次の瞳には、冷たい鉄格子の光にしか見えなかった。

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