第443節『強引な引き抜き』
第443節『強引な引き抜き』
饗宴は、その華やかさとは裏腹に、見えざる棘に満ちたまま、夜の帳が下りる頃まで続いた。
信長が放った毒は、確実に徳川家臣団の心に染み渡り、彼らの胸にあった勝利の昂揚は、次第に濁り、焦りと疑念へと変わっていった。
やがて、宴の終わりを告げる笛の音が、静かに響いた。
家康は、膝の上で握りしめていた拳をゆっくりと解いた。
その掌には、爪の跡が白く残っている。
彼は、屈辱に満ちた空気を断ち切るように立ち上がり、信長の前へと進み出る。
「信長様。今宵は、身に余るご厚情、まこと恐悦に存じまする。これにて御前を辞しとう存じまする」
声は平静を装っていた。だが、その奥には噴き上がらんばかりの怒気と無念が、わずかに震えを帯びて潜んでいた。
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、信長が、音もなく立ち上がった。
その所作一つで、広間の全ての音が止む。盃を傾けようとしていた者、息を吸い込もうとした者すら、動きを凍らせた。
信長は、家康の横をすり抜ける。まるで彼の存在を空気の如く扱うかのように。
そして、家臣の列に控えていた源次の前で、足を止めた。
その異様な眼が源次を射抜き、ゆっくりと口を開く。
「この軍師は、面白い。しばらく我がもとに置く。構わぬか?」
その声音はもはや問うてはいなかった。すでに決まった未来を告げる宣告だった。
家康は凍り付いた。広間全体の時間が止まる。
(……やはり来たか)
源次の脳裏に、書物で読んだ“信長の人心掌握”の逸話が閃く。
(家臣を褒め、主を試すという信長の常套。実際に目の前で行われると、これほどまでに暴力的に感じるとは思わなかった)
拒めば同盟は破綻する。応じれば、自分の右腕を敵に差し出すことになる。
いずれを選んでも地獄だ。
沈黙が広間を満たす中、源次は一歩、前へ進み出た。深く頭を垂れ、声を落として言う。
「もったいなきお言葉。されど、この身は井伊のものであり、心は徳川にございます。二君に仕えることは、武士の道に悖るものと心得ますれば」
その言葉に含まれていたのは、忠義の誓いではなく、家康を守るための決死の拒絶だった。広間の空気が一瞬震え、誰かが息を呑んだ。
信長は鼻で笑っただけだった。
「――ならば、その心ごと、預かろう」
その冷たい一言は、言葉の形をした暴力であった。
信長はゆっくりと家康へと顔を向ける。
「……のう、家康よ」
その瞳には一片の笑みもない。獲物の反応を無感情に眺める猛禽の眼差しだけがあった。
家康は唇を噛み締め、血の味がわずかに口内に広がるのを感じた。
やがて、ゆっくりと膝をつき、畳に額を擦り付けるように深く頭を垂れる。
言葉はなかった。だが、その一挙手一投足が、雄弁に敗北を物語っていた。
(……まただ)
源次の胸が冷たくなる。
(勝っても奪われ、忠を尽くしても試される。この時代の主従は、信義ではなく、支配と恐怖で成り立っている。信長はそれを誰よりも理解しているのだ)
饗宴の灯りが、黄金色の地獄のように揺らめく。
その中心で、二人の男――支配する者と、全てを奪われた者――が、沈黙のまま向き合っていた。
源次はその光景を凝視し、静かに拳を握り締めた。
それが、己の信義をかろうじて繋ぎ止める、唯一の方法であった。




