表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
442/562

第442節『饗宴の棘』

第442節『饗宴の棘』

 広間の奥の襖が静かに開かれた瞬間、あらゆる音が消えた。

 その静寂の中から、第六天魔王・織田信長が姿を現す。

 漆黒の南蛮衣の上に虎の毛皮を纏い、金の灯に照らされて歩むその姿は、まるで異界の王の降臨だった。

 その一歩ごとに、場の空気が膝を折る。

 信長は諸将を一瞥し、満足げに頷くと、上座の玉座にどかりと腰を下ろした。

「宴じゃ。存分に飲み、食らうがよい!」

 その一声が落ちると同時に、鼓が鳴り、笛が響く。

 侍女たちが金の皿を運び、香の煙がゆるやかに天井を染める。

 だが、その華やぎの下には、何かが蠢いていた。

 誰もが、今日のこの宴が「ただの祝賀」ではないと知っていたからだ。

 やがて、信長が立ち上がった。

「まずは、此度の長篠の大勝利、まこと見事であった! これもひとえに、我が同盟者・徳川殿の奮戦あってのこと!」

 その声が、広間を貫く。

 信長は、家康の前に歩み寄り、自らの手で杯に酒を注いだ。

 あまりの厚遇に、徳川方の家臣たちは安堵と誇りを顔に浮かべた。

 だが、それは序章に過ぎなかった。

 信長は杯を掲げたまま、ふと周囲を見渡した。

 その視線が、鋭く一人の男に突き刺さる。

 源次である。

「じゃが」

 声の調子が変わった。

 広間のざわめきが一瞬で止む。

「真の立役者を、皆、忘れてはならぬ。武田の騎馬を屠り、設楽原の地を火の海と化したその策よ。あれこそ神がかりの知恵。

 あの勝利、井伊の軍師・源次なくしては成らなんだ!」

 爆弾のような宣告だった。

 広間に、息を呑む音が連なって響く。

 家康が握る杯が、わずかに震えた。

 その視線の先、源次は深々と頭を垂れる。だが、心の奥では冷えた波が立っていた。

(……こいつ……また、やったか)

 胸の奥で、重苦しい既視感が広がる。

(長篠の後もそうだ。あのときも、あえて俺を持ち上げ、家康さんを立てながらも、足元を崩した。今度も同じ。だが、より狡猾だ)

 源次は井伊家の臣であり、徳川家に仕える客将。

 にもかかわらず、織田信長が直にその功を称えた。

 それは忠義の線を越え、立場を曖昧にする行為だった。

 この一言で、彼は「徳川の人間」でも「織田の人間」でもある、危うい綱の上に立たされたのだ。

 広間の端で、明智光秀がそっと扇を上げ、主に歩み寄った。

「……殿。過ぎた称賛は、毒となりましょう。徳川殿の顔がございます」

 信長は笑った。

「毒こそが、我が糧よ」

 その低い囁きに、光秀の瞳がわずかに揺れた。

「猛獣(家康)の隣に、さらに異形(源次)を置く。二匹がどう動くか、それを見るが面白いではないか」

 源次の瞼が、静かに伏せられる。

(……悪魔だ。戦の勝ち負けより、人の心の裂け目を見て楽しむ)

 膝の上で、家康の拳が白くなるほど固く握られているのが見えた。

 その痛みは、まるで自分の心を貫くかのようだった。

 宴は、金と香に満ちながら。

 その底に、血のような赤い棘を隠していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ