第442節『饗宴の棘』
第442節『饗宴の棘』
広間の奥の襖が静かに開かれた瞬間、あらゆる音が消えた。
その静寂の中から、第六天魔王・織田信長が姿を現す。
漆黒の南蛮衣の上に虎の毛皮を纏い、金の灯に照らされて歩むその姿は、まるで異界の王の降臨だった。
その一歩ごとに、場の空気が膝を折る。
信長は諸将を一瞥し、満足げに頷くと、上座の玉座にどかりと腰を下ろした。
「宴じゃ。存分に飲み、食らうがよい!」
その一声が落ちると同時に、鼓が鳴り、笛が響く。
侍女たちが金の皿を運び、香の煙がゆるやかに天井を染める。
だが、その華やぎの下には、何かが蠢いていた。
誰もが、今日のこの宴が「ただの祝賀」ではないと知っていたからだ。
やがて、信長が立ち上がった。
「まずは、此度の長篠の大勝利、まこと見事であった! これもひとえに、我が同盟者・徳川殿の奮戦あってのこと!」
その声が、広間を貫く。
信長は、家康の前に歩み寄り、自らの手で杯に酒を注いだ。
あまりの厚遇に、徳川方の家臣たちは安堵と誇りを顔に浮かべた。
だが、それは序章に過ぎなかった。
信長は杯を掲げたまま、ふと周囲を見渡した。
その視線が、鋭く一人の男に突き刺さる。
源次である。
「じゃが」
声の調子が変わった。
広間のざわめきが一瞬で止む。
「真の立役者を、皆、忘れてはならぬ。武田の騎馬を屠り、設楽原の地を火の海と化したその策よ。あれこそ神がかりの知恵。
あの勝利、井伊の軍師・源次なくしては成らなんだ!」
爆弾のような宣告だった。
広間に、息を呑む音が連なって響く。
家康が握る杯が、わずかに震えた。
その視線の先、源次は深々と頭を垂れる。だが、心の奥では冷えた波が立っていた。
(……こいつ……また、やったか)
胸の奥で、重苦しい既視感が広がる。
(長篠の後もそうだ。あのときも、あえて俺を持ち上げ、家康さんを立てながらも、足元を崩した。今度も同じ。だが、より狡猾だ)
源次は井伊家の臣であり、徳川家に仕える客将。
にもかかわらず、織田信長が直にその功を称えた。
それは忠義の線を越え、立場を曖昧にする行為だった。
この一言で、彼は「徳川の人間」でも「織田の人間」でもある、危うい綱の上に立たされたのだ。
広間の端で、明智光秀がそっと扇を上げ、主に歩み寄った。
「……殿。過ぎた称賛は、毒となりましょう。徳川殿の顔がございます」
信長は笑った。
「毒こそが、我が糧よ」
その低い囁きに、光秀の瞳がわずかに揺れた。
「猛獣(家康)の隣に、さらに異形(源次)を置く。二匹がどう動くか、それを見るが面白いではないか」
源次の瞼が、静かに伏せられる。
(……悪魔だ。戦の勝ち負けより、人の心の裂け目を見て楽しむ)
膝の上で、家康の拳が白くなるほど固く握られているのが見えた。
その痛みは、まるで自分の心を貫くかのようだった。
宴は、金と香に満ちながら。
その底に、血のような赤い棘を隠していた。




