第441節『金色の城』
第441節『金色の城』
湖畔にそびえる安土城は、源次が想像していた全ての「城」という概念を、根底から覆すものだった。
彼は、歴史研究家として、ルイス・フロイスの記録や、わずかに残る狩野永徳の下絵図など、安土城に関するありとあらゆる文献を読み込んできたはずだった。頭の中には、壮大で革新的な城の姿が、ぼんやりとではあるが描かれていた。
だが、目の前に現れた現実は、その貧弱な想像を、あまりにも無慈悲に打ち砕いた。
まだ足場が組まれ、多くの職人たちが行き交う喧騒の中、その威容を現しつつある巨大な天主。白漆喰の壁はまだ乾ききっておらず、槌音や鋸を引く音が絶え間なく響いている。今まさに、生まれつつあるのだ。
だが、その未完成の姿ですら、源次を圧倒するには十分だった。特に、最上階部分。そこだけはすでに外装が施され、金箔で飾られた欄干が、夕陽を浴びて燃えるように輝いていた。それはもはや戦のための砦ではない。ただ、見る者すべてを平伏させ、天下人の権威を示すためだけに天を目指す、巨大な意志の塊だった。
(……嘘だろ)
源次の喉から、かすれた声が漏れた。
(文献に記されていたのは、この怪物の、ほんの骨格に過ぎなかったということなのか……。この異様なまでの美意識、この圧倒的なまでの存在感は何だよ。紙の上では、決して伝わらなかったものが、ここにはあるんだ……!)
家康は「……まるで仏閣じゃな」と呻いたが、源次は静かに首を振った。
「いえ、家康殿。あれは理想の牢獄にございます」
その言葉の意味を、家康はまだ理解できなかった。
城門で森蘭丸の丁重な、しかしどこか人形のように感情のない出迎えを受け、一行が通されたのは、天主の中でも、饗宴のために特別に設えられた大広間だった。
そこに足を踏み入れた瞬間、源次の全身が、戦場の緊張とは別の、圧倒的な威圧感に包まれた。壁はまだ下地のままの場所もあるというのに、天井からは南蛮渡りの灯りが吊るされ、床には豪華な絨毯が敷かれている。そして、壁一面には、この日のためだけに運び込まれたのであろう、金碧の屏風がずらりと並べられていた。戦の匂いはない。しかし、ここは別の意味での戦場だった。
広間にはすでに、織田家が誇る重臣たちが、居並んでいた。
源次は、歴史書で名前を知る者たちを、眼前にして、その一人ひとりを冷静に、そして瞬時に分析していく。
(佐久間信盛――筆頭家老か。噂に違わぬ、老練な将の相。だが、あの目の端に滲むかすかな緊張。俺を、そして徳川を、まだ完全には認めておらぬな。実利を重んじる分、情には脆いか)
(明智光秀――穏やかな表情の裏で、目の奥に鋭い計算と警戒が潜んでいる。『キンカン頭』と揶揶揄されることを極度に嫌うという、その高いプライドが、いつか命取りになる。俺が信長公に気に入られているという噂を、どう処理すべきか、その一手を探っている顔だ)
(丹羽長秀――『米五郎左』か。派手さはないが、実務能力に長け、織田家の屋台骨を支える男。あの冷静な目は、俺をどう扱うか、家中での利害を天秤にかけている。最も油断ならぬ相手やもしれぬ)
(滝川一益――鉄砲の扱いに長け、関東管領を任されるほどの男。新参者でありながら、その目は野心に満ちている。俺の三段撃ちの策を、興味と警戒が入り混じった視線で探っているな)
(そして、羽柴秀吉――あの猿公か。人の懐に飛び込むのが得意と聞くが、敵対心よりも、好奇心と競争心が勝っている。俺を、自らの出世の駒として使えるか、あるいは障害となるか、値踏みしているな)
彼は、一瞥するだけで、歴史知識と目の前の現実を組み合わせ、彼らの心理を瞬時に読み解いていく。この金色の広間は、彼にとって巨大な将棋盤であり、そこに座す猛将たちは、それぞれ異なる動き方をする駒に過ぎなかった。
やがて饗宴が始まった。豪華な料理と酒盃が運ばれる中、源次の目は常に、人々の微細な動きに向けられていた。
(佐久間は、いかにして古参としての権威を示そうとするか。光秀は、いつその知性という牙を剥くか。そして秀吉は、どう立ち回って信長の歓心を買うか。……面白い。書物の上では分からなかった、生身の人間の欲望が、手に取るように見える)
彼は、自らが歴史の特等席で、最高の人間ドラマを観劇しているかのような、奇妙な高揚感を覚えていた。
だが、その高揚は、すぐに冷たい緊張感へと変わった。
(……戦場よりも、恐ろしいやもしれぬ。ここは、権力という見えざる網が張り巡らされた、蜘蛛の巣だ。ここでの一挙手一投足が、俺の、井伊の、そして徳川の未来に、直接影響を与える)
彼は覚悟を決めた。そして、金色の広間に立つ自らの影を、冷たい緊張と共に、改めて見つめ直した。
(これが、歴史を知る者として臨む、最初の審判の場――俺の、本当の戦が始まったのだ)
その時、広間の奥の襖が、静かに開かれた。
全ての音が、止まった。
この城の主、第六天魔王が、姿を現したのだ。
 




