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第440節『安土への召命』

第440節『安土への召命』

 井伊谷で過ごした数日は、まるで嵐のあとの凪のように、静かに過ぎていった。

 源次は、昼間は軍師として城で政務を手伝い、夜は長屋に戻って重吉と他愛のない言葉を交わす。また浜名湖の水軍を訪れては、新太、権兵衛と戦についての意見を交わす。

 その繰り返される日常が、設楽原で荒れ果てた彼の心を、少しずつ癒していった。

 だが、彼は知っていた――その安らぎが、永遠のものではないことを。

 その朝、冬の気配を帯びた雨が、細く長く降り続いていた。

 浜松の方角から、徳川の紋を染め抜いた早馬が、泥を跳ね上げながら井伊谷城へと駆け込む。

 緊急に召集された評定の間。

 直虎、中野直之、小野政次ら井伊家の主だった者たちが見守る中、ずぶ濡れの使者は鞍袋から一通の書状を取り出し、源次の前に恭しく差し出した。

「――徳川殿より、軍監様に至急の御伝令!」

 源次は慎重に封を切った。

 紙面には見覚えのある、家康の力強い筆跡。

 だが、その文面は、家康の意志ではなかった。

「安土城、天主上棟の儀に際し、祝宴を催す。

徳川殿、ならびにその麾下何ある軍師・源次、共に出仕せよ。――織田信長」

 文面は、一見すれば礼を尽くした招待状である。

 しかし、誰の目にも明らかだった。

 それは「招待」ではなく、「召命」であった。

「……やはり、来おったか」

 中野直之が、押し殺した声で言う。

 信長が安土に城を築く――それ自体が、天下の覇権を示す象徴であった。

 その節目の宴に呼ばれるということは、織田家臣の列に加わることを意味する。

 家康も源次も、もはや「同盟者」ではなく、「臣下」として遇される可能性があるのだ。

「罠かもしれぬ」

 小野政次が低く続ける。

「行けば、信長の思う壺。されど断れば……」

 その言葉を、源次が静かに遮った。

「……断る道は、ございませぬ」

 彼は立ち上がり、全員の視線を受け止めた。

 その顔には、恐怖の影も迷いもなかった。

「避けようとすれば、嵐はますます荒れ狂うだけ。

 ならば、真っ向から風の中へ踏み込み、信長公の真意を見極めるまでです」

 直虎が唇を噛みしめ、問う。

「……戻れるのか」

 その問いに、源次はわずかに微笑んだ。

「ええ。必ず。井伊と徳川のため、いや――この谷のために。」

 その言葉に、誰もが息を呑んだ。

 もはや止めることはできなかった。

 彼は再び、戦場へ向かう将の顔をしていた。

 数日後。

 井伊谷を発ち、浜松城で徳川本隊と合流した一行は、一路、西へと馬を進めた。

 冬枯れの野に、風が冷たく吹き抜ける。

 それは、かつて設楽原で感じた戦場の風と、どこか同じ匂いを帯びていた。

 行列の先頭には、家康が無言で進む。

 その背を追いながら、源次は馬上で冷たい雨雲の彼方を見据えていた。

(これは、饗宴ではない。――審判の場だ)

 天下を握らんとする男が、自らの支配の枠に誰を置き、誰を排除するかを定める――

 その裁きの場へ、彼は進んで赴くのだ。

 安土へ。

 金色の檻へ。

 源次の、最も孤独で危険な戦いが、いま始まろうとしていた。

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