第44節『見抜く瞳』
第44節『見抜く瞳』
「源次。そなたには早速、最初の仕事を命じねばならぬな」
地図を指し示した直虎の言葉に、源次は「はっ」と応じ、その命を待った。
だが、直虎はすぐには言葉を続けない。彼女は地図から顔を上げ、目の前の男をじっと見据えた。その瞳には、領主としての冷徹な光が宿っていた。
(この仕事は、井伊家の命運そのものを、この男一人の双肩に託すに等しい。もし裏切られれば、井伊は終わる。……本当に、この男に賭けてよいのか)
信じると決めたはずだった。だが、あまりにも重い決断を前に、最後の迷いが彼女の胸をよぎる。
その頃、城内の一角では、中野直之が一人、月明かりの下で木刀を振っていた。
彼の脳裏から、祝宴での源次の姿が離れない。若者たちが彼を英雄と讃え、直虎が絶対の信頼を寄せる。その光景が、長年井伊家を支えてきた自らの誇りを苛んでいた。
「……あの男、一体何を企んでおる」
疑念は晴れぬまま、ただ夜の闇に剣風が唸る。主君が密室で出自不明の男と事を進めている間にも、彼は彼なりのやり方で井伊家を守ろうとしていた。その忠義が、やがて大きな亀裂を生むことを、まだ誰も知らない。
直虎は心を固めた。(言葉の誓いは聞いた。だが、これから託すは井伊のすべて。ならば、魂の誓約を交わさねばならぬ)
彼女はすっと立ち上がると、壁に掛けられた一本の短刀に手を伸ばした。
井伊家に代々伝わる守り刀――家を守る象徴であり、当主が重大な決断を下す際にその覚悟を問う、聖なる刃。
直虎はその短刀を両手で恭しく捧げ持ち、源次の前に戻った。
(な……なんだ、この短刀……!ただの飾りじゃない……)
源次の胸の奥に、ぞくりと走る緊張。武士としての本能が、この刃に宿る尋常ならざる気配を告げていた。
直虎は短刀を正面に掲げ、源次に差し出した。
「源次。そなたは先ほど、身命を賭して井伊を守ると申したな」
その声は静かで、しかし揺るぎなかった。
「その言葉、今一度、この井伊家の魂の前で誓えるか」
直虎の瞳は、鋭い刃のごとき光を宿し、源次を射抜いた。
源次は息を呑んだ。
(推しが……俺の覚悟を、改めて問うている……!)
これは単なる確認ではない。口約束を、神仏と先祖の前で魂の契約へと昇華させるための、神聖な儀式だ。
源次の胸が熱く燃え上がる。
(俺が……俺がこの時代に生きている意味。それは推しのために誓うことだ!)
源次は膝をつき、片手で短刀の柄にそっと触れた。その刃が、蝋燭の灯に淡く輝いた。
「……誓います」
声は低く、しかし堂々としていた。
「我が命、我が知恵、そのすべてを。井伊の未来のために。そして……直虎様、あなたのために」
その言葉に一片の迷いもなかった。
直虎は、その瞳をじっと見つめた。
(……偽りはない。この男、本気だ)
確信が胸に満ち、直虎は小さく頷いた。
「その誓い、違えるなよ」
短刀を介して重ねられた二人の手に、蝋燭の光が揺れる。それは血の繋がりをも凌ぐ、魂と魂を結ぶ契約の証であった。
この夜、井伊直虎と源次の間に結ばれた契約は、ただの主従を超えていた。それは領主と懐刀が、井伊家の未来を共に切り拓くために結ぶ「賭けの盟約」。
この誓いこそが、二人の運命を、そして井伊家の未来を決定づける宿命の契りとなったのだ。
蝋燭の灯が揺れ、二人の影が静かにひとつに重なっていた。