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第439節『井伊谷』

第439節『井伊谷』

 浜松城を出立し、故郷へと向かう道すがら、源次の心は静かな嵐の中にあった。信長の執着に満ちた視線と、友である家康の憂いを帯びた忠告。その二つの重石が、長篠での勝利という昂揚感を完全に打ち消し、彼の思考を支配していた。

 だが、井伊谷の境を示す古い石仏が見えた瞬間、その重苦しい空気は、懐かしい土の匂いと澄んだ風によって、ふっと和らいだ。


 久しぶりに見る故郷は、穏やかな冬支度の最中にあった。

 城下を歩くと、すれ違う領民たちが、はっとしたように足を止め、道端に寄って深々と頭を垂れる。井戸端で洗濯をしていた女たちが、ひそひそと声を潜めるのが聞こえた。

「……あれ、ご覧なさい。源次様がお戻りだ」

「まあ……。聞きましたか? もはやただの源次様ではないそうですよ。徳川様のところで、『軍監様』という、それはもう偉いお役目を授かったと」

「ほう、軍監様って何をするものなのでしょうか。なんでも、あの長篠の大戦で、あの織田様ですら舌を巻くほどの大手柄を立てられたとか。この谷から、とんでもないお方が出たもんだねえ」

 その畏敬の念のこもった囁き声。もはや、親しみを込めて「源次様」と呼ぶ空気はない。彼らは、自分たちの手の届かない、雲の上の存在を見るような目で、この谷の英雄を見つめていた。その距離感が、源次の胸をわずかに締め付けた。


 城での公式な帰還報告を終えると、直虎は彼を私室へと招き入れた。その顔には、隠しきれない安堵と誇らしさが浮かんでいる。

「……源次。此度の働き、まこと見事であった。井伊としても大きな勝利となった。徳川の軍監という大役も受けたと聞いておる。そなたの身分に相応しい寝床を、直ぐに城内に用意させよう。もはや、あの古い長屋では……」

(なんてお優しい言葉。井伊が長篠の戦いで存在をアピールできたことは、歴史の流れを上手くコントロールできた証だ。直虎様にいいプレゼントが出来て本当に良かったよ)

 直虎の温かい配慮に、源次は胸を打たれた。だが、彼は静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。

「お心遣い、かたじけなく存じます。されど、俺の帰る場所は、あそこしかございません。どうか、お許しください」

 直虎は、その言葉の裏にある彼の固い意志を悟り、少し寂しげに、しかし深く頷くしかなかった。


 彼がたどり着いたのは、城内に新しく与えられた立派な屋敷ではない。かつて、足軽として仲間たちと共に寝起きし、今も彼の私室として残されている、城下の古い長屋の一室だった。扉を開けると、埃っぽく、しかし懐かしい木の匂いが彼を迎える。

 その長屋の縁側で、一人の老人が煙管をふかしながら、彼を待っていた。重吉だった。

「……おう。随分とでかくなって、帰ってきたじゃねえか。軍監様よ」

 そのぶっきらぼうな歓迎の言葉に、源次の口元が、この日初めて、心から緩んだ。

「重吉こそ、達者そうだな」

「へっ、お前さんが化け物じみた戦の采配を振るってるって噂は、この谷にも届いてるぜ。……だが、顔色が悪ぃな。天下人の相手は、骨が折れるとみえる」

 老兵の目は、全てを見透かしていた。源次は何も言わず、ただ苦笑してその隣に腰を下ろした。


 重吉は、煙を吐き出しながら、源次が留守中の城内の様子を語り始めた。

「……お前さんが帰ってくる前に、そりゃあ盛大な戦勝報告会が開かれてな。中野の旦那が、自らの手柄はそこそこに、鳶ヶ巣山での新太の若様の働きを、それはもう見事な口上で皆に語って聞かせたのよ」

 その言葉に、源次は目を見開いた。

「中野殿が……?」

「ああ。『此度の真の勝因は、源次殿の深謀遠慮と、それを体現した新太殿の鬼神のごとき武勇にあり!』てな。徳川からも新太殿の功を高く評価しておられると伝えられて、古参の連中も、もはや何の文句も言えんかったわ。……今じゃ、新太の若様は、この井伊家になくてはならぬ、もう一本の槍として、誰もが認めておる。お前さんが心配せずとも、城の中は、見事に一つになっとるぜ」


 その報告に、源次は心からの安堵の息を漏らした。

(中野さん……。あんたは、俺がやらねばならんと思っていたことまで、完璧にやってのけてくれていたのか……)

 自分がいない間も、仲間たちがそれぞれの役目を果たし、家を支えている。その事実が、彼の孤独な心を、温かく満たした。


 その夜。源次は、長屋の一室で一人、庭に吊るされた風鈴の音を聞いていた。

 ちりん、と澄んだ音が、夜の静寂に響く。

 だが、彼の耳には、その音が、設楽原で鳴り響いた鉄砲の轟音の残響のように聞こえていた。穏やかな風の音ですら、彼の心を戦場へと引き戻す。

 彼は、自らがもはや、この井伊谷の平穏には戻れない人間になってしまったことを、骨の髄まで痛感していた。

 仲間たちの笑い声がすぐ近くにあるからこそ、彼の孤独は、より一層際立つのだった。

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