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第43節『偽りと真実』

第43節『偽りと真実』

 沈黙の誓いが解けた後、直虎の私室には以前とは明らかに違う空気が流れていた。

 互いの腹を探り合うような鋭い緊張は消え去り、代わりに、共に重い秘密を背負う者同士だけが分かち合える、静かな温もりが広がっていく。

 直虎はしばし源次を見つめた後、そっと立ち上がった。

 水指に手を伸ばし、今度こそ茶を淹れ直す。茶筅の音が、静かに室内に響いた。

 それはまるで、新たな関係の始まりを告げる儀式のようであった。


 差し出された茶碗を、源次は両手で受け取った。その掌に伝わる温かさに、胸の奥がじんと痺れる。

 (推しが……俺のために、二度も……!)

 唇を震わせぬよう、必死に堪える。目頭が熱くなるのを誤魔すように、静かに茶を口へと運んだ。

 苦みと共に、張り詰めていた心が解きほぐされていく。

 (ああ……この一碗だけで、もう何度でも戦える……!)


 「源次」

 茶を口にした直虎が、柔らかい声で名を呼んだ。

 「そなたのことは、もう問わぬ」

 「……」

 「これからも、そなたは“漁師の源次”であればよい」

 静かだが、確かに命じる響きだった。源次は一瞬、その真意を測りかねた。

 直虎は彼の戸惑いを察し、静かに言葉を続けた。

 「そなたの持つ知恵は、常人には理解できぬものじゃろう。もしそれをありのままに語れば、家中はそなたを『妖術使い』と恐れ、私を『妖に誑かされた女』と侮る。それでは井伊は内から崩れる」

 その言葉で、源次は全てを理解した。

 (そうだ…俺の知識は、この時代では異端すぎる。俺の正体を隠すことは、俺自身を守るだけでなく、推しの立場を守ることにも繋がるのか…!)

 直虎の命令は、彼への配慮であり、同時に家中をまとめるための現実的な策だったのだ。それは二人だけの密約――「公式設定」を定めるという、共闘の始まりだった。

 源次は意図を汲み取り、深く頭を下げる。

 「は……私は、ただの漁師にございます」

 その言葉を皮切りに、源次は二人の間で共有すべき物語を語り始めた。

 「……されど、故郷の海にて、生きるために多くを学びました。海の上では、刀も槍も役には立ちませぬ。生きるか死ぬかは、潮と風と星に懸かっておりました」

 低く、しかし確かな声で続ける。

 「星を仰げば、時を知ることができます。風の匂いを嗅げば、明日の天候が読めます。潮の流れを見れば、その先に何が待つか、おおよそ見通せます。それらはすべて、この井伊家のためにございます」


 直虎はじっとその言葉を聞いていた。

 (言葉の上では筋が通っている。この『漁師の知恵』という仮面があれば、中野たちもいずれは納得せざるを得まい)

 彼女は感じていた。この語りの中に、明らかに嘘があることを。

 だが、その奥に潜む「井伊家のために」という魂の叫びは、偽りではなかった。

 偽りで塗り固められた履歴書。しかしその根底に息づく魂は、揺るぎなき誠だった。

 「……なるほど」

 やがて直虎は、静かに頷いた。

 「私は、そなたに槍働きだけを求めてはおらぬ。むしろ、その知恵――その眼こそ、これからの井伊を救う宝となろう」

 その声音は、命令を超えた宣言であった。井伊直虎は、源次をただの家臣ではなく、己の「懐刀」として迎え入れると決めたのだ。


 源次は深く、深く頭を垂れた。

 (俺……俺は今、推しに正式に認められたんだ!ただの駒じゃない、推しの懐刀なんだっ!最高の推し活だぁぁぁぁ!)

 直虎は、その背を見つめながら、心中で静かに思う。

 (あれは、ただの駒ではない。我が懐刀……いや、井伊家の運命そのものやもしれぬな)

 

 こうして、表向きは「漁師の知恵を持つ男」という仮面を被り、その裏では誰にも明かせぬ真実を共有する、二人の密やかな共闘が始まった。

 直虎は立ち上がると、壁に掛けられた地図を指し示した。その視線はもはや内ではなく、外へ、井伊家がこれから対峙すべき現実へと向けられていた。

 「源次。そなたには早速、最初の仕事を命じねばならぬな」

 蝋燭の炎が揺れ、主君と家臣の影が、地図の上に重なった。それは、井伊家の未来を切り拓くための、次なる一手を探る影であった。

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