第422節『第二の狼煙』
第422節『第二の狼煙』
設楽原の本陣では、息詰まるような緊張の中、全ての将兵が、遥か後方、鳶ヶ巣山砦の方角の空を凝視していた。赤い狼煙が上がってから、すでにしばしの時が経過している。
「……まだか」
本多忠勝が、苛立ちを隠さずに呟いた。酒井忠次の部隊が攻撃を開始してから、戦況を伝える次の報せが全く届かない。霧が深いため、戦の詳細は見えず、ただ遠くでかすかに響く鬨の声だけが、激しい戦闘が続いていることを伝えていた。
「忠次殿は、手間取っておられるのか」「あるいは、罠にはまったか……」
将たちの間に、不安と焦りがさざ波のように広がっていく。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、誰かの絶叫だった。
「―――見よ!」
全ての視線が、再び空へと注がれる。
赤い狼煙がまだ消えぬうちに、そのすぐ隣から、さらに巨大な藍色の煙が、まるで天を貫く竜のように、渦を巻きながら真っ直ぐに立ち上ったのだ。
それは、井伊の旗と同じ、鮮やかな藍色。
その圧倒的なまでの存在感は、これが単なる合図ではないことを、その場にいる全ての者に確信させた。
源次は、その光景を、軍配を握りしめたまま見つめていた。
(……やった。やり遂げたな、新太!)
彼の胸に、軍師としての、そして友としての、熱いものが込み上げてくる。
それは、新太率いる本命の奇襲部隊が、酒井隊が陽動として敵を引きつけている隙に、砦の心臓部である兵糧庫の破壊と、指揮系統の麻痺に完全に成功したことを示す、勝利の狼煙だった。
二つの刃は、完璧に連動したのだ。
その完璧すぎる連携と作戦成功に、連合軍本陣は、一瞬の静寂の後、爆発的な歓喜に包まれた。
「おおっ!」「二つ目の狼煙!」「やったか!」
家康は、驚きに目を見開いていた。だが、彼の驚きは、作戦が成功したこと自体ではなかった。
「……速すぎる」
彼の口から、信じられないという響きを帯びた声が漏れた。
「忠次が敵を引きつけ始めてから、まだ半刻も経っておらぬぞ。それほどの短時間で、川を遡り、崖を登り、守りを突破して砦の心臓を突いたと申すか……! いかなる神速の兵よ!」
徳川の将たちも、その異常なまでの速さに戦慄していた。「陽動が敵の注意を引きつけきる前に、すでに本命が結果を出しているとは……」「井伊の別働隊、まこと人にあらず……!」
自分たちが主役の一部だと思っていたこの奇襲作戦の、真の主役が井伊の部隊であったこと、そしてその力が自分たちの常識を遥かに超えていることを、この二本の狼煙によって、全軍の前に見せつけられたのだ。
その歓声の中心で、織田信長は、ただ一人、狂気にも似た歓喜の笑みを浮かべていた。
「くっくっく……面白い! あの潮読みめ、この儂の想像すら超えてきおったわ!」
彼は玉座から立ち上がると、自らの手で陣太鼓を掴み、天を裂くような轟音を響かせた。
そして、全軍に向かって檄を飛ばす。
「見たか! 敵はすでに袋の鼠よ! これより、時代の節目となる戦を始める! 臆する者は斬る!」
その魔王の咆哮に呼応し、連合軍の兵士たちから、大地を揺るがすほどの鬨の声が上がった。
士気は、最高潮に達した。
武田軍が、自らの敗北を知らぬままに。
設楽原の悲劇の舞台は、今、完璧に整った。




