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第421節『運命の朝』

第421節『運命の朝』

 天正3年5月21日、夜明け前。

 設楽原は、まだ深い静寂と、前夜からの雨が残した濃い霧に包まれていた。

 世界は、青みがかった灰色の光の中に沈み、視界は極めて悪い。数メートル先の馬防柵の杭すらぼんやりと霞み、まるで亡霊の森に迷い込んだかのようだった。しんと静まり返った戦場に聞こえるのは、夜露が草の葉から滴り落ちる音と、鎧のどこかで鳴る微かな金属音、そして数万の兵たちが息を殺す、その巨大な気配だけだった。


 丘の上に設けられた連合軍の本陣。その中心、源次が指揮を執る場所もまた、張り詰めた静寂に支配されていた。

 源次は、軍配を膝に置き、微動だにせず、ただ東の空が白み始めるのを待っていた。彼の顔には、昨夜の葛藤の色はない。ただ、自らが描いた策の、その最初の一歩が始まる、冷徹な軍師の顔があった。

 傍らに控える伝令役の若武者たちは、固唾をのんで軍師の横顔を見つめている。彼らはまだ、この静寂が破られる最初の合図が、目の前の敵からではなく、遥か後方から上がることを知らない。


 やがて、東の空が鉛色から、わずかに乳白色へとその色を変え始めた、まさにその瞬間。

 遥か後方、鳶ヶ巣山砦があるはずの方角の霧の切れ間から、一本の赤い狼煙が、まるで血の筋のように、天を突いて真っ直ぐに立ち上った。


「―――来たか」

 源次の喉から、誰にも聞こえぬほどの、かすれた声が漏れた。

 それは、酒井忠次率いる陽動部隊が、砦周辺の出城と物見櫓への攻撃を開始したことを示す、作戦第一段階完了の合図だった。

 その赤い筋が空に描かれたのを皮切りに、本陣に詰めていた徳川の将たちの間に、鋼が擦れるような鋭い緊張が走った。

「狼煙!」「砦にて、戦が始まったぞ!」

 家康もまた、拳を固く握りしめた。


 その狼煙は、当然、設楽原に布陣する武田軍の本陣からも見えた。

「申し上げます! 鳶ヶ巣山砦に、徳川の兵が!」

 伝令の叫びに、勝頼は「小賢しい真似を!」と吐き捨てる。だが、彼の意識は、そして彼の率いる主力の目は、完全に背後の砦へと釘付けになった。

(……面白い。だが、しょせんは小部隊による陽動よ。本隊が動かぬ限り、脅威ではない)

 彼の油断。それこそが、源次が仕掛けた最初の罠だった。


 設楽原の本陣で、源次は、その赤い狼煙が風にたなびくのを、ただ静かに見つめていた。

(……よし。まず、敵の目は背後に逸らした。だが、本当の勝負はここからだ)

 彼の視線は、赤い狼煙の、さらにその奥、まだ何も見えぬ空の一点に注がれていた。

 彼が、そしてこの戦の運命そのものが待ちわびているのは、もう一つの、そして本当の勝利を告げる、藍色の狼煙。

 友・新太が上げるはずの、その一本の狼煙が上がるか否か。

 それに、この戦における井伊の、そして織田・徳川数万の兵の命運の全てが懸かっている。

 霧に包まれた運命の朝は、まだ始まったばかりだった。

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