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第42節『問いと沈黙』

第42節『問いと沈黙』

 直虎の私室には、静謐な空気が流れていた。

 先ほどの激しい問答の熱は冷め、燭台の炎が壁に二人の影を淡く映している。

 直虎は茶碗を置き、源次を真っ直ぐに見据えた。

 「……そなたの誓い、しかと受け取った」

 その声音は、もはや探るような響きではなく、安堵に近い柔らかさを帯びていた。

 「身命を賭して、井伊を守る……その覚悟、頼もしく思うぞ」

 源次は深く頭を垂れる。その言葉だけで、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ふっと、張り詰めていた糸が緩むように、直虎は話題を変えた。

 「そういえば、そなたは浜名湖の出であったな。冬になれば、湖も冷えよう」

 「は。されど、冬の浜名湖はまた格別の趣がございます。水鳥が舞い降り、空気は水晶のように澄み渡りますれば」

 「ほう。一度、見てみたいものじゃな」

 穏やかな世間話が続く。源次もまた、故郷の海の様子を語り、部屋には小さな温もりが広がった。

 (ああ……推しとこんな話ができるなんて……夢のようだ)

 その顔に、わずかに緩んだ表情が浮かびかけた。

 だが次の瞬間――


 直虎の口調が、何の前触れもなく変わった。

 彼女は心の中で自問していた。(この男……誓いは真実。才覚も本物。だが、それらを内包する『器』そのものが、あまりにも謎に満ちている。この者を真に信じ、井伊の未来を託すならば、その根源に触れねばならぬ)

 「……待て、源次」

 低く、しかし有無を言わせぬ声だった。

 「最後に、一つだけ問うておきたい」

 源次の心臓が大きく跳ねる。

 「……は」

 「そなたは――まこと、何者なのだ」

 時間が止まったようだった。

 直虎の声音は静かだったが、否応なく心を射抜く。それは身分や出自を問うているのではない。源次という人間の存在そのものの根幹を問う、あまりにも深く、重い問いだった。

 (きたぁぁぁあああああ!推しからの核心質問直撃ぃぃぃ!)

 逃げ道はない。これまで用意してきた言葉も、すべて無力に感じられた。

 頭の中に、別の時代の記憶がよみがえる。転生の瞬間。波間に沈みかけた意識の中で、再び目を覚ましたあの日。

 (言えるわけねぇ……!転生者だなんて言ったら、この時代じゃ狂人扱いされる!信用どころか、即座に処刑モノだろ!)

 源次は唇を開こうとした。しかし声が出ない。喉の奥に、鉛のような重みが張り付いていた。

 沈黙。

 唇が小さく震える。だがその口からは一言も漏れない。視線を畳に落とす。眉がわずかに歪み、苦悩がその顔を覆った。


 直虎は、その姿をじっと見つめた。

 彼女は悟っていた。彼の誓いが真実であることは、すでに分かっている。才覚が井伊にとって必要であることも理解している。だが、彼が抱える「語れぬ何か」ごと受け入れる覚悟が、領主である自分にあるのか――今、試されているのは源次ではなく、自分自身なのだと。

 (そなた……語れぬのだな。嘘で取り繕うこともできたはず。だが、そうせぬ。この沈黙こそが、この男の最大の誠意なのだ)

 直虎の胸に、確信にも似た直感が走る。

 嘘ではない。だが、真実も語れぬ。その苦悩を帯びた沈黙こそが、何よりも誠実な答えであると。

 蝋燭の炎がわずかに揺れる。その光に浮かんだ源次の横顔は、悲しみと覚悟に彩られていた。


 やがて直虎は小さく息を吐き、問いを下ろした。

 「……よい。もう答えるな」

 源次の肩が震える。

 「顔を上げよ、源次」

 その声は、探るのでもなく、責めるのでもない。彼の「語れない真実」を、その誠実さごと受け入れると決めた者の、静かで力強い響きだった。

 恐る恐る顔を上げる。そこにあったのは、澄み切った直虎の眼差し。疑念ではなく、深い信頼の色が宿っていた。

 「そなたの沈黙、しかと受け取った」

 胸が焼け付くように熱くなる。

 (推しが……俺を信じた!?言葉も出せなかった俺を!それでも信じてくれるのかぁぁぁああ!)

 込み上げる涙を必死に抑え、源次は深く頭を垂れた。

 「は……!」

 もはや言葉は要らなかった。沈黙こそが、最大の誓いであると互いに悟ったからだ。

 直虎と源次。二人の間に結ばれたのは、言葉を超えた絶対的な信頼。

 直虎は、目の前の男の奥に、井伊家がこれまで決して持ち得なかったものを見ていた。それは血筋でもなく、譜代の忠義でもない。未来を見据える知恵と、主君の心を救おうとする誠意――滅びゆく家に差した、ただ一筋の光だった。

 この絆は、単なる主従の枠を超えている。これは、井伊家が新しい時代を生き抜くために結ばれた、運命そのものを変えうる宿命の契りであった。

 蝋燭の炎が揺れ、二人の影が重なり合う。沈黙の中に交わされた誓いは、誰にも壊すことのできぬものとなった。

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