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第41節『二人きりの評定』

第41節『二人きりの評定』

 直虎の私室に通された瞬間、源次は思わず息を呑んだ。

 宴の喧騒とは隔絶された静寂。部屋は決して広くはない。八畳ほどの板間に、簡素な几帳と文机。華美な装飾は一切なく、壁際に掛けられた一振りの短刀が、ただ静かに光を放っている。

 だが、その簡素さこそが彼女の気品を際立たせていた。

 蝋燭の炎が柔らかく揺れ、直虎の横顔を照らす。その凛とした姿は、まるで絵巻から抜け出した姫武将そのものだった。

 (やばいやばいやばい!推しと二人きり!密室だぞ!?この空気、濃すぎる!近すぎる!尊死するっ……!)

 心臓が暴れ馬のように暴れる。しかし外面はあくまでも冷静、礼儀正しく正座を崩さない。


 「源次、そこに座れ」

 促されるままに座ると、直虎は手を伸ばし、自ら茶を淹れ始めた。茶碗を取り、湯を注ぎ、静かに湯気が立ち上る。

 その一連の所作に、源次の心は揺さぶられる。

 (うおお……所作が美しい……!茶を注ぐだけで国宝級……!動作の一つ一つが推し活の宝庫……!)

 涙が滲みそうになるのを必死に堪え、ただ深く頭を下げた。


 「先の戦、見事であった」

 茶を差し出しながら直虎が口を開いた。声音は穏やかだが、瞳は真っ直ぐに源次を射抜いている。

 「……じゃが、それゆえに不思議でならぬ。一介の漁師に、なぜあれほどの軍略が分かる?」

 核心を突く問いだった。源次は茶碗を受け取り、わずかに口を湿らせ、覚悟を決めて答えた。

 「は。恐れながら、全ては浜名湖の海が教えてくれたことにございます。潮の流れを読み、風の声を聴き、魚の群れの動きを予測する。それと戦は、形は違えど理は同じにございますれば」


 直虎の瞳はなおも揺らがない。彼女は茶を一口すすると、間髪入れずに次の問いを放った。

 「ほう。では犬居城での戦、なぜ伏兵がいると分かった。あれは潮の流れとは無関係であろう」

 「……敵の陣形に不自然な隙がございました。魚の群れも、捕食者を前にすれば異様な動きを見せます。それと同じ理にございます」

 「その隙を見抜ける者が、なぜこれまではただの漁師でいられた。その才、もっと早く世に出る道もあったはずじゃが」

 矢継ぎ早の質問に、源次は冷や汗を隠せない。

 「……世に出るつもりはございませんでした。ただ静かに、海と共に生きるはずが、戦乱がそれを許さなかっただけでございます」

 (くそっ、苦しい言い訳だ! だがこれ以上はボロが出る!)

 直虎はしばし黙し、やがて氷のように冷たい声で言った。

 「……そなたの言葉は、まるで未来を見てきたかのようじゃな」

 源次の心臓が凍り付いた。

 (見抜かれてる……!? 転生者だと!?)

 「潮が引き、霧が出ると断言した。伏兵がいると断言した。それは勘や知恵というには、あまりに確信に満ちておる。……源次、そなたは一体、何を見ておる?」

 その問いは、もはや彼の素性を探るものではなかった。彼の能力の本質、その深淵を覗き込もうとするかのような響きがあった。源次は言葉に詰まり、必死に声を絞り出した。

 「……未来など、見えませぬ。ただ、無数の理を積み重ねれば、必然は見えてまいります。拙者が見たのは、未来ではなく、ただの必然にございます」


 直虎は、その答えをじっと見つめていた。やがて、ふっと息を吐き、張り詰めていた空気を和らげる。

 「……なるほどな。そなたの言葉は、真と偽が巧みに織り交ぜられておる。まるで網のようじゃ。解きほぐそうとすればするほど、絡まるばかり」

 源次は顔を上げられずにいた。

 「だが」と直虎は続けた。「その網を貫く一本の太い縄が見える」

 源次がはっと顔を上げる。

 「それは『井伊を守りたい』という、そなたの誠じゃ。違うか?」

 見抜かれていた。嘘も、建前も、そしてその奥にある本心も。

 源次は観念し、平伏した。それは彼の魂からの本心だった。

 「……お見通しの通りにございます。拙者の言葉には、偽りもございましょう。されど、身命を賭して姫様をお守りするという心、それだけは真にございます」

 外面は武士としての礼節を極めた言葉。しかし内心は、もう別の意味で爆発していた。

 (バレた! バレたけど信じてくれた! 推しが俺の本心だけを信じてくれたぁぁ! やばいやばい尊いぃぃぃ!)


 直虎はその答えにしばし黙し、やがて小さく頷いた。

 「……よかろう。今はそれ以上を問うまい」

 安堵と同時に、源次の心臓がさらに跳ねた。

 (セーフ……! 嘘ごと俺を受け入れてくれた! 俺の推し、器がでかすぎる!)

 やがて直虎は言葉を続ける。

 「そなたの奥には、まだ我らの知らぬものが眠っておる。だが一つだけ、確かに分かったことがある」

 「それは……?」

 「そなたが、この井伊を守りたいと心の底から願っておることだ。……その誓いの言葉にだけは、嘘がなかった」

 その言葉に、源次は深く頭を下げた。

 「は。身命を賭して」

 外面と内面が、ついに同じ言葉で重なった瞬間だった。

 (当たり前だ!推しのためなら命懸けだ!それが俺の人生の目的なんだよおおお!)

 蝋燭の炎がふっと揺れ、二人の影が重なり合う。

 その影は、単なる主従を越えた、不思議な信頼の絆を映していた。

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