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第40節『新たな立場』

第40節『新たな立場』

 あの勝利の翌朝、源次が目を覚ましたのは、見慣れぬ部屋の中だった。

 夜明けの光が障子を淡く照らし、これまで彼が寝泊まりしてきた雑兵部屋とは違う、静かで清潔な空気が満ちている。

 広さは六畳ほど、板敷きの床に薄い敷布団が一組。壁際には洗いざらしの新しい水桶と、清潔な手拭いが揃えられていた。

 「……ここは」

 あまりに整えられた空間に、源次は一瞬、自分が夢を見ているのではないかと疑った。これまで彼の眠る場所といえば、汗臭さと泥の染みついた雑魚寝の小屋で、隣の者の寝息や鼾に悩まされるのが常だったのだ。

 昨日の直虎の言葉が蘇る。

 ――そなたはもはや、ただの足軽ではない。この井伊を導く、かけがえのない将の一人ぞ。

 「……出世とは、こうも早いものか」

 思わず苦笑が漏れる。自分の力で望んだ待遇ではない。ただ戦に勝った、その一事で周囲が彼を押し上げてしまったのだ。


 しばらくして戸が叩かれ、顔を出したのは年若い足軽だった。彼は深々と頭を下げ、ぎこちない口調で告げる。

 「源次殿、朝餉の支度が整っております。…その、姫様からの御差配で」

 ――殿。

 その響きに、源次は一瞬言葉を失った。昨日まで「おい源次」などと呼ばれていたはずだ。それが一夜にして敬称で呼ばれている。

 案内された膳の上には、湯気の立つ麦飯に、多めの稗が混じったものが盛られていた。しかし、その脇には焼いた川魚と、具の多い味噌汁が添えられている。これまで与えられていた雑炊ばかりの食事とは、まるで別世界のような膳である。

 源次は箸を取り、しばし飯を見つめた。

 「……魚まで……。俺一人で食うには、贅沢すぎる」

 そう呟きつつも、空腹に勝てず箸を口に運ぶ。久しく味わっていなかった魚の塩気が、身体に染み込んでいく。だが、その味は決して心地よいばかりではなかった。それは、彼がもはや「雑兵の一人」ではなくなったという、重い事実の象徴でもあったからだ。


 朝餉を終え、外へ出ると、さらに驚くべき光景が待っていた。

 城内を歩けば、すれ違う兵たちが次々と立ち止まり、深々と頭を下げる。

 「源次殿、昨夜は誠にお見事でした!」

 「武田を退けたのは、源次殿のおかげにございます!」

 兵士だけではない。家臣団の末席に連なる者までもが、畏敬の眼差しで彼を見ている。

 源次は内心で首を傾げていた。彼は昨日と何も変わってはいない。だが周囲は、まるで自分が別人にでもなったかのように扱うのだ。

 「……俺はただ、生き残るために策を練っただけだ」

 そう思うほどに、彼の心には居心地の悪さが募っていく。

 さらに彼を困惑させたのは、決死隊の若武者たちだった。彼らはすっかり源次を中心とした一団と化し、行く先々で彼に寄り添う。その熱狂ぶりは他とは一線を画していた。

 「源次様! 今度こそ共に槍を学ばせてください!」

 「奇襲の時のご采配、まさに神業にございました!」

 熱に浮かされたような彼らの姿は、もはや「同僚」ではない。信奉者、崇拝者に近い。源次はその視線に答えるように微笑を返すが、心の奥では戸惑いを隠せなかった。


 その夜。

 井伊家の広間には篝火が焚かれ、豪勢な料理と酒が並んでいた。武田軍を退けた勝利を祝う宴である。

 座敷の上座には直虎が座し、その脇に控えるはずの重臣たちの間に、源次が招かれていた。

 「源次、そなたの働き、見事であった」

 直虎自らが盃に酒を注ぎ、その言葉を贈る。広間は割れんばかりの歓声に包まれた。

 「源次殿に万歳!」「井伊の軍神だ!」

 若い武士たちは競うように酒を注ぎ、次々と賛辞を送る。

 「あの時の松明の火、まるで雷神が怒り狂ったかのようでした!」

 熱狂の輪の中心に源次がいた。だが、彼の耳には別の音が届いていた。

 賑わいに混じる、低いざわめき。広間の隅に座する、中野直之とその一派の冷ややかな視線だ。彼らの周りだけ、酒の香りも笑い声も凍り付いているかのようだった。

 直之の眼差しは、祝宴の喧騒を裂く刃のように鋭く、源次を射抜いていた。

 ――この勝利が、新たな亀裂を生んでしまった。

 源次はその事実を悟り、杯を傾ける手をわずかに止めた。


 宴もたけなわとなり、やがて散会の時を迎える。

 源次が自室へ戻ろうとしたその時、先ほどの足軽が駆け寄った。

 「源次殿、姫様がお呼びでございます」

 案内されたのは評定の間ではなく、直虎の私室だった。障子を開けると、そこには直虎ただ一人。

 座した姿は凛とし、先ほどの宴の華やぎは微塵もない。

 「源次。改めて礼を言う。よくやってくれた」

 直虎の声音は穏やかだが、その瞳は鋭い光を宿していた。称賛だけではない。彼女は今、源次の内奥を見極めようとしている。

 「……一つ、そなたに問いたいことがある」

 その言葉は、まるで刃のように重く、静かに広間へ落ちた。

 源次は静かに直虎を見返した。胸の奥に広がるのは、勝利の余韻ではなく、これから訪れる嵐の予感だった。

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