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第4節『迫りくる歴史』

第4節『迫りくる歴史』

 夜が明けるのを、ただ待つだけの夜ほど長いものはない。

 源次は寝床の上で幾度も寝返りを打った。だが瞼を閉じれば閉じるほど、脳裏には生々しい映像が焼き付いて離れなかった。

 炎に包まれる村。

 女たちが泣き叫び、子どもが母の裾に縋って倒れる。

 甲冑に身を固めた兵が笑いながら刃を振るい、血潮が砂に染みてゆく――。

 それは本で読んだはずの「歴史上の出来事」にすぎないはずだった。だが今の源次には、それが未来の「現実」にしか思えなかった。自分が知る限り、遠江侵攻は間もなく始まる。武田の大軍は容赦なくこの地を呑み込み、村も人も消え去る。

 その確信が、まるで熱病のように胸を焼いた。

「……寝てなんかいられるかよ」

 ぼそりと呟いた声が夜の小屋に吸い込まれる。冷たい潮風が壁の隙間から吹き込み、夜の匂いを運んできた。もう東の空は薄らと白んでいる。

 源次は跳ね起きると、戸を押し開けて浜辺へ走った。足は砂に取られ、心臓は喉を突き破らんばかりに高鳴る。向かう先はただ一つ――育ての親ともいえる老漁師の小屋だった。

 老漁師はちょうど網を手入れしているところだった。夜明け前から働く姿は、いつもと何ら変わらない。

 その日常の光景こそ、源次には恐ろしく思えた。

「爺さん!」

 息を荒げて駆け込むと、老漁師は驚いたように眉を寄せた。

「なんじゃ、そんな顔をして。夜通し走り回っておったのか?」

「爺さん、逃げよう!すぐにでも、この村を出なきゃだめだ!」

 声が裏返り、叫びにも似ていた。

 老漁師はしばし目を瞬かせ、それから困ったように首を振った。

「おいおい、朝っぱらからどうした。熱でもあるんじゃないか」

「違う! もうすぐ武田が来るんだ。戦になる、この村も巻き込まれる!」

 源次は必死に言葉を繰り出した。だが、老漁師は理解できないものを前にする時の、あの遠い目をしていた。

「なぜ分かる?」

 静かな問い。

 源次の胸は痛むほど高鳴り、舌はもつれた。

「それは……と、とにかくそうなんだ。夢で見たんだ! いや、夢じゃない、でも……!」

 自分でも支離滅裂だと思う。だが、歴史を知っているから、などと打ち明けられるはずもない。そんなことを言えば、本当に狂人扱いだ。

 老漁師はため息をつき、源次の肩に手を置いた。

「夢見が悪かったのじゃろう。だがな、源次。戦などはお武家様のすること。わしらのような小さな漁村にまで押し寄せてくるはずがないわい」

「違う! 必ず来るんだ! お願いだ、信じてくれ!」

 必死の声も、虚しく波音にかき消された。

 その日、村の男たちはいつものように寄り合いを開いていた。漁に出る準備を整え、浜辺に腰を下ろし、海の具合や潮の流れについて話している。

 源次は迷わずその場へ飛び込んだ。

「みんな、聞いてくれ!」

 鋭い声に、数人が目を上げた。

「この村は危ない! 武田が攻めてくる! 行商人の話を聞いただろう? 今川はもう持たない! 甲斐の軍勢は必ず遠江に来るんだ!」

 一瞬の沈黙。

 そして――笑い声。

「はは、なんだ源次、芝居でも始める気か」

「甲斐の軍勢だと? そんなもの、殿様衆の話じゃろうが」

「大体、わしらの村なんぞ取るに足らん。武田様が来るものか」

 源次の胸に、冷たい針が次々と突き立つ。必死の叫びは、笑いと軽蔑にしかならない。

「本気なんだ! 今ここで逃げなきゃ、みんな殺される!」

 声を張れば張るほど、村人たちの視線は冷たさを増した。

 若者の一人が苦笑混じりに囁く。

「やっぱり暑さでやられたんじゃないか」

 別の男が気の毒そうに言った。

「可哀そうにな。親も早くに亡くし、夢ばかり見とるんだろう」

 その視線は、心配というより「異物」を眺める目だった。

「もうやめろ」

 老漁師が立ち上がり、源次の腕を強く引いた。

「みっともないぞ」

 振り返ると、村人たちは肩をすくめながら再び漁の話に戻っていく。源次は引きずられるようにして浜を離れた。

 小屋へ戻ると、老漁師はしばらく黙り込み、やがて低い声で言った。

「源次、お前の言うことは分からん。だがな……ここがわしらの生きる場所だ。どこへ行けと言うんだ。わしらには海しかない」

 その言葉は、源次の心を容赦なく叩き潰した。

 逃げろと叫んでも、彼らには逃げる理由も力もない。明日の糧を得る方が、遠い戦よりも重いのだ。

 その日、村はいつもと変わらぬ日常を過ごした。子どもたちは波打ち際で貝を拾い、女たちは干物を作り、男たちは沖へ漕ぎ出す。

 笑い声と潮の匂いに満ちた光景――だが源次には、それが死刑執行を待つ囚人の最後の宴にしか見えなかった。

 村人は彼を避け、遠巻きに囁き合う。

「やっぱりおかしくなったんだな」

「夢見のせいさ。放っておけ」

 孤独。胸の奥が氷のように冷えていく。

 夕暮れ、源次は村を見下ろす小高い丘へ登った。西の空は赤く染まり、やがて闇が迫る。

 その向こうには、甲斐から押し寄せるであろう大軍がいる。歴史の濁流が、すぐそこまで迫っているのだ。

 彼は拳を握りしめ、震える唇で呟いた。

「……ああ、そうか。歴史を知っているだけじゃ、ただの預言者気取りの狂人なんだ。誰も救えない。自分さえも」

 潮騒が、静かに打ち寄せては引いていく。

 村の灯がぽつりぽつりと瞬き始める。笑い声もまだ聞こえる。だがその平穏は、嵐の前の静けさにすぎない。

 源次はただ一人、迫り来る悲劇の影を見つめていた。

 その孤独は、夜よりもなお深かった。

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