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第39節『小さな大勝利』

第39節『小さな大勝利』

 川向こうの闇は、炎に赤々と染まっていた。

 黒煙が渦を巻き、耳を劈くような叫喚が断続的に響いてくる。武田軍の陣営が混乱に包まれていることは、誰の目にも明らかであった。

 だが、井伊本陣に集う兵たちは、目の前で起こっている光景が信じられず、声もなく立ち尽くしていた。まるで夢か幻のように、あまりにも現実離れした惨状だったからだ。

 「……な、何が起きているのだ……」

 「決死隊は……どうなった……」

 囁き声が交わされる。武田の旗が薙ぎ倒され、陣幕が燃え、兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。井伊軍は攻め込んでもいない。それなのに敵が壊滅していく――理解を超えた出来事だった。


 その時、霧の中から影が浮かび上がった。

 ぼんやりと揺れる松明に照らされ、帰還する兵の列が見えてくる。

 胸甲は煤にまみれ、手には血と泥がこびりついている。だが、その歩みに迷いはなく、作戦を完遂した者だけが持つ確かな誇りに満ちていた。

 「……決死隊だ! 帰ってきたぞ!」

 誰かが叫んだ瞬間、本陣は爆発したように歓声に包まれた。

 「戻ったぞ!」「勝ったんだ、俺たちは勝ったんだ!」「武田を叩き潰したぞおおお!」

 兵たちは駆け寄り、英雄のように彼らを取り囲む。

 「ようやった! お前らこそ井伊の宝だ!」

 決死隊の若武者の一人が、興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。

 「源次殿の策の通りだ! 敵は我らを大軍と見誤り、同士討ちを始めたのだ!」

 その言葉に、本陣の兵たちはどよめいた。熱狂の渦の中心には、源次がいた。彼は周囲の歓声をものともせず、ただ前を見据えて歩を進めていた。その佇まいはもはや足軽のそれではなく、勝利の喧噪の中にあってなお冷静さを失わない、将の器を感じさせた。


 直虎はその光景を見て、思わず胸に手を当てた。信じられぬ奇跡が、いま目の前に広がっている。安堵と驚愕、そして心の底から湧き上がる感謝が、瞳を潤ませていた。

 だが、その隣で中野直之は苦々しい表情を浮かべていた。噛み締めた奥歯が軋む。源次の功績があまりにも大きく、誰もがその名を讃えている。それはすなわち、自らが信じてきた武士としての在り方、槍働きこそが武功であるという価値観が、この漁師上がりの男の知恵の前に霞んでしまったことを意味していた。その焦りが、彼の表情を歪ませる。


 源次は歓声を背に、すぐさま部隊を整列させた。

 「点呼を取れ」

 張り詰めた声に、兵たちの浮かれた空気が一瞬で引き締まる。

 一人、また一人と名を呼び、答えが返ってくる。

 「負傷者、二名」

 「……戦死者は――ゼロ」

 その報告に、再び歓声が沸き起こった。

 「死者なしだと!?」「奇跡だ!」「神仏が味方してくださったのだ!」

 だが、決死隊の者たちは知っていた。これは奇跡ではない。源次の策が、敵兵との直接戦闘を極力避け、混乱を引き起こすことに特化していたからこその必然なのだと。


 負傷兵を手当てに下がらせると、源次は決死隊の中で最も身分の高い若武者に向き直り、一歩下がって頭を下げた。

 「殿への戦果報告、お頼み申します」

 身分を弁えたその振る舞いに、周囲の兵たちが息を呑む。だが、若武者は力強く首を横に振った。

 「いや、この勝利はおぬしのものだ。この策を立て、我らを導いたおぬしが報告するのが筋であろう」

 他の決死隊の者たちも、皆一様に深く頷く。彼らにとって、この作戦の指揮官は源次ただ一人だった。

 その無言の推挙を受け、源次は静かに頷くと、直虎の許へと進み出た。


 「直虎様」

 声は静かで、しかし揺るぎない。源次は深く頭を垂れ、戦果を淡々と述べた。

 「敵兵糧の大半を焼却。馬数十頭を放ち、陣幕、武具多数を破壊いたしました。敵将の首級は得られませなんだが、敵部隊は組織的戦闘能力を喪失しております」

 言葉は簡潔で無駄がない。だがその内容は、井伊家にとってあまりにも大きすぎる勝利だった。

 「……なんと……」

 直虎は思わず声を漏らす。息を呑むほどの戦果だ。

 「源次……そなたは」

 言葉を継ごうとしたその時、背後から声が割って入った。

 「お待ちくだされ!」

 中野直之だった。

 「確かに見事な奇襲ではござったが、敵を滅ぼしたわけではありませぬ! 漁師上がりの博打が、たまたま的に当たっただけのこと!」

 その場にいた者たちの空気が一瞬凍り付く。だが直之の言葉は、誰の耳にも虚しく響いた。勝利という絶対的な事実の前では、それはただの負け惜しみに過ぎなかった。

 兵たちは源次を見ていた。讃える眼差しで、憧れる眼差しで。そこに嫉妬や疑念の入り込む余地はない。


 「直之、控えよ」

 直虎の声音は冷厳だった。

 「そなたの言う武士の誉れだけでは、この戦は勝てなかった。今は結果こそがすべてじゃ」

 その一喝で場が鎮まる。彼女は改めて源次の方へ向き直り、その声はもはや家臣にではなく、井伊家を救った功労者に向けられる響きを帯びていた。

 「源次。見事であった。そなたはもはや、ただの足軽ではない。この井伊を導く、かけがえのない将の一人ぞ」

 その言葉は、直虎による正式な「格上げ」の宣言だった。周囲の家臣たちも息を呑む。

 源次は深く頭を下げる。歓喜に酔うこともなく、ただ冷静にその言葉を受け止めた。

 彼は分かっていた。この勝利が井伊家を押し上げたことを。そしてそれが、もはや後戻りできぬ道を踏み出したことを。

 霧の向こう、まだ武田は息絶えてはいない。この勝利は大いなる戦の始まりにすぎない。

 歓喜の影に、次なる波乱の予感が忍び寄っていた。

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