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第38節『夜明けの鬨』

第38節『夜明けの鬨』

 東の空が、微かに色を変え始めていた。

 深い藍が、灰色へと溶け、川霧はその色を映すようにさらに濃くなる。

 吐く息すら白く消えず、霧に吸い込まれていく。

 武田の陣からは、かすかな鼾や、寝返りの衣擦れ、早起きの兵が焚火をつつく音が洩れてきた。笑い声も、欠伸もあった。

 誰もが、ここに死の気配が潜んでいるとは思いもしない。


 源次は低く構え、右手を高く掲げる。

 その掌は朝の光を受けず、白い霧に包まれて揺れていた。

 背後の三十の兵が、一斉に息を吸う。握り締められた槍の軋む音すら、霧の中で震えて聞こえる。

 静寂は、極まっていた。まるで天地そのものが呼吸を止め、ただ一瞬を待っているようであった。

 源次は目を閉じ、耳を澄ませた。川のせせらぎ。寝息。鳥の羽ばたき。

 その全てを呑み込み、ただ、決断の瞬間だけがそこにあった。


 やがて――。

 源次の目が開かれる。黒曜石のごとき瞳が、東の空の白みに閃いた。

 右手が握られ、振り下ろされた。

 「今だ――! かかれぇぇぇっ!!!」

 その絶叫は雷鳴であった。三十の喉が一斉に裂け、天地を揺るgaす咆哮となって霧を震わせた。

 「「「うおおおおおおおおおっっっ!!!」」」


 静寂は砕け、霧は裂けた。地獄の門が開いたかのように、決死隊が一斉に敵陣へと雪崩れ込む。

 眠りの中から飛び起きた武田兵が、寝ぼけ眼で陣幕から顔を出す。しかしその口が声を上げるより早く、鋭い槍先が胸を貫いた。

 「敵だ! 敵襲――」

 叫んだ兵は、言葉の途中で喉を断たれた。声は霧に吸われ、ただ赤黒い泡だけが残る。


 何が起きたのか、武田兵には理解できなかった。夢か現か。耳に響くのは、四方八方からの咆哮。霧に遮られ、敵の数も方向も分からない。

 「味方か!? 敵か!? どこからだ――!」

 目の前で倒れた仲間の顔は、次の瞬間には赤く染まり、地に崩れ落ちていた。剣を抜こうとした手は震え、柄を掴むより早く押し倒される。

 視界は血と霧に奪われ、ただ悲鳴と断末魔が交錯していた。

 「大軍だ……! 囲まれている……!」

 「助けてくれ……!」

 混乱と恐怖が、武田兵を瞬く間に呑み込んだ。


 一方、決死隊は計画通りに動いていた。彼らの目的は、敵兵を殲滅することではない。人間の心理的弱点を突く、徹底した攪乱作戦であった。

 「兵糧庫はあちらだ! 火を放て!」

 源次の命令に、松明を持った数名が迷いなく駆ける。

 「火がついたぞ!言われた通りだ!」

 火矢が放たれ、乾いた俵に燃え移り、たちまち炎が立ち昇った。

 「馬を放て! 縄を切れ!」

 別の隊は馬繋場を襲い、暴れる馬を陣中に解き放つ。驚いた馬が杭を引き抜き、陣幕をなぎ倒し、炎を巻き込んで敵兵を蹴散らす。

 「見ろ!敵は右往左往するばかりだ!」

 決死隊の兵士たちは、源次が語った通りの光景が目の前で繰り広げられるのを見て、武者震いを抑えきれなかった。


 この作戦の核心は、情報遮断と恐怖の増幅にある。濃霧によって視界を奪われた武田兵は、敵の正確な規模を把握できない。そこに鬨の声と炎、暴れ馬が加わることで、「大軍に四方を囲まれた」という誤った情報を脳に刷り込まれるのだ。

 逃げ惑う武田兵は、崩れた幕に足を絡め取られ、互いにぶつかり合い、暗がりで味方を敵と誤認して槍を向ける者すらいた。

 「本当に同士討ちを始めたぞ…信じられん…」

 三十人の決死隊がもたらした物理的な損害は小さい。だが、彼らが引き起こした心理的なパニックは、数百の軍勢を内部から崩壊させるには十分すぎた。


 叫び声は空を裂き、血の匂いが濃霧に混じって漂う。源次は、その混乱を冷静に見渡していた。

 武田兵の中には、川に飛び込んで逃れようとする者もいた。しかし流れは急で、次々と水底へ引き込まれていく。

 「ひぃぃ……! 化け物だ……! 奴らは人ではない……!」

 恐怖に駆られた声が霧に散った。

 敵陣は、すでに地獄であった。炎と血と悲鳴が絡み合い、霧は赤黒く染まり、何もかもが崩壊していく。

 もはや戦ではない。ただの一方的な攪乱であった。


 やがて、源次は槍を振り払い、声を放つ。

 「潮が満ちるぞ! 引け! 川を渡る!」

 その声は明確で、迷いがなかった。深追いは無用。目的は敵陣の壊乱――すでにその目的は十分に果たされていた。

 「攻め時だけでなく、引き際まで完璧に計算されていたのか…!」

 若武者の一人が感嘆の声を漏らす。決死隊は一斉に踵を返し、燃え盛る陣を背に、再び川の浅瀬へと向かう。


 川を渡り終え、井伊の陣地が見えてくると、兵士たちの口から次々と賞賛の声が漏れ始めた。

 「三十人で…本当に数百の軍勢を崩壊させちまった…」

 「これも全て、源次殿の読み通りだ。霧も、潮も、敵の動きさえも…」

 「あれはもはや軍略ではない。神業だ…!」

 彼らの眼差しには、もはや身分の差など存在しなかった。ただ、絶対的な指揮官への畏敬と信頼があるのみだった。


 井伊の本陣からは、川向こうのその光景がはっきりと見えた。霧の向こうに、炎と悲鳴が立ち昇る。

 誰もが、その意味を理解した。

 「成功した……!」

 武田軍の背を焼き尽くす火の柱こそ、起死回生の証であった。

 源次は最後に一度だけ振り返る。炎と霧に包まれた敵陣を、その眼に焼き付けるように見た。

 そして、迫りくる満ち潮から逃れるように、黙って川を渡り、霧の闇に消えていった。

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