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第37節『霧中の渡河』

第37節『霧中の渡河』

 丑の刻――。

 月は西に傾き、川面は暗い鉄色を帯びていた。

 佐久間川の岸辺に、三十余名の兵が静かに膝を折って集まっている。昨夜の源次の指示通り、音の出る鎧は脱ぎ、腰に短槍と脇差のみ。足には布を幾重にも巻き、物音を立てぬよう万全の準備を整えていた。

 彼らの息は白く、吐くたびに小さな靄となって宙に漂い、やて夜気に溶けてゆく。

 源次は川面を見据えて立っていた。胸の奥では鼓動が鳴っていたが、顔には一片の揺らぎもない。彼はただ、自らが読み解いた「理」が現実となる瞬間を待っていた。


 やがて――。

 川面から淡い白が立ち昇った。初めは薄い布のように、川の中央をかすかに覆うだけであった。だが、それは瞬く間に広がり、濃さを増してゆく。

 草むらも、兵の顔も、すべてを呑み込み、白い帷が世界を覆った。

 「……出たぞ」

 誰かが、畏敬と興奮の入り混じった声で呟いた。

 「あの男の言った通りだ……本当に霧が……」

 「神懸かりではない。理だと言っていた……その理が、今目の前に……」

 昨夜の説明があったからこそ、兵たちの驚きは迷信への恐怖ではなく、作戦の成功を確信する力へと変わっていた。霧はもはや川を越え、対岸どころか、数歩先の仲間すら見えぬほど濃い。闇に溶け込むよりも深く、白の中に消え入る。


 源次は振り返り、声を潜めて言った。

 「行くぞ」

 川に足を踏み入れた瞬間、骨の髄まで凍るような冷気が膝から心臓へと突き刺さる。兵たちは息を止め、唇を噛み、歯の根が合わぬ音を必死に抑え込んだ。

 だが、それ以上に恐ろしいのは、音を立てることだった。一歩間違えれば、石を蹴る水音が闇に響き、敵に気づかれる。

 源次は先頭に立ち、足裏で川底を探りながら進む。砂利、ぬかるみ、そしてごつごつした岩。すべてが彼の記憶に刻まれている。

 「右へ三歩……岩がある。踏み外すな」

 源次の声は、霧の中で囁きとなり、後ろへと伝わっていく。兵たちは互いの肩に手を置き、一列の鎖となって川を渡った。

 霧の幕が周囲を遮り、己のすぐ前の背中しか見えぬ。その背中が消えれば、己もまた闇に呑まれる――兵たちはその恐怖に耐えながら、源次の指示だけを頼りに進んだ。

 「ここから先、少し深くなる。腰を落とせ」

 次の瞬間、川水が腰を覆い、冷気が全身を締めつけた。兵たちの喉から小さな声が漏れそうになるが、必死に押し殺す。


 源次は歩みを止めず、川の音に耳を澄ませていた。水のせせらぎ、遠くの虫の声、霧に遮られた鳥の羽音。その中に、人の声や鉄の響きが混ざらぬかを探っていた。

 だが、武田の陣はまだ眠っている。霧がその目と耳を覆っている。

 渡河は遅々として進む。時間の感覚は失われ、ただひたすらに水を踏みしめる。足先は痺れ、ふくらはぎは凍り、指先の感覚も失せる。しかし誰一人として声を上げぬ。

 「あと十歩……流れが速い、気をつけろ」

 源次は身をかがめ、指で川底を探るように進む。兵たちはその背にしがみつくようについていく。彼の声、それが唯一の灯火だった。


 やがて川の流れが緩み、足が再び固い土を踏んだ。

 その感触に、兵たちの胸が一斉に高鳴る。霧に包まれながら、彼らは静かに岸へと這い上がった。

 最後の一人が川を渡り切ったとき、源次は深く息を吐いた。

 誰一人欠けることなく、音も立てず、敵に気づかれることなく――渡河は成功したのだ。

 岸の茂みに身を潜め、兵たちは震える体を寄せ合った。濡れた衣が肌に貼りつき、骨の髄まで冷え込む。だがその心には、作戦を完遂しつつあるという確かな高揚があった。

 「……本当に、渡れた」

 「源次殿の言う通りにすれば、道は開けるのだ……」

 兵たちの視線が、自然と源次の背に集まる。そこにはもはや足軽の影はない。自然の理を読み解き、死地を渡り切った唯一無二の将。その姿は、身分を超えた絶対的な信頼を集めていた。


 源次は振り返らず、ただ東の空を見つめていた。

 霧の白の向こう、ほんのわずかに闇が薄らいでいく。夜が退き、朝が忍び寄っていた。

 武田の陣から、いびきや寝息がかすかに漏れ聞こえる。

 兵たちは息を殺し、指先で槍を握りしめる。

 源次は右手を静かに掲げた。

 その合図は「待て」を意味する。

 隣にいた若武者が、たまらず声を潜めて囁いた。

 「源次殿、なぜです? 敵は寝静まっている。今こそ好機では?」

 源次は空を見つめたまま、静かに答えた。

 「まだだ。夜明け前のこの一瞬こそ、人が最も深く眠る刻限。霧が一番濃くなり、敵が最も無防備になるのを待つ。我らの狙いは敵兵を斬ることではない。奴らの頭脳と五感を奪い、自滅させることだ」

 その言葉で、兵たちは昨夜の作戦説明を思い出した。糧秣に火を放ち、馬を解き放ち、陣を破壊する。大軍に襲われたと錯覚させ、混乱の渦に突き落とす――そのための、最後の待ち時間なのだと。

 三十の兵が、一斉に息を潜める。音もなく、動きもなく、ただ張り詰めた空気だけがそこにあった。

 死の川を渡り切った彼らは、いま理性の刃となって夜明けを待つ。

 そして源次の背中は、兵たちにとって揺るぎなき道標であり続けた。

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