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第36節『作戦前夜』

第36節『作戦前夜』

 夜は深く、空には雲一つなく星が冴え渡っていた。

 陣の外れ、草地を踏み固めただけの広場に、焚き火が三つ、赤々と燃えている。

 その周りに、三十余名の男たちが輪を描いて座っていた。

 決死隊――そう呼ばれた彼らの顔は、揺れる炎に照らされ、不安と緊張に硬くこわばっている。評定で源次の策に賛同した若武者もいれば、彼を慕う足軽もいる。身分の垣根を越えて集った者たちだ。

 なかには「手柄を立てたい」と志願してきた者もいたが、いざ夜を迎えると口数は少なく、ただ互いに視線を避け合うばかりだった。


 「本当に……できるのか」

 「川を渡るなど、狂気の沙汰よ」

 「だが、あの男が評定で語った理屈は、確かに筋が通っていた……」

 焚き火の陰で交わされる囁きは、不安と期待が入り混じっていた。

 彼らの胸を最も締め付けているのは、死そのものへの恐怖ではなかった。

 犬死にするのではないか――意味のない屍になるのではないか――その思いである。


 そこに、源次が現れた。

 粗末な足軽鎧のまま、背筋をすっと伸ばして歩み出る。だがその歩みに迷いはなく、彼を見た者の心に「この男は揺らがぬ」と思わせる静かな力があった。

 源次はまず深々と頭を下げた。その声は若武者にも足軽にも等しく向けられ、身分の差を超えた指揮官としての覚悟を感じさせた。

 「今宵ここに集まってくれたこと、心より感謝する。おのおのの命、軽んじぬ。必ず道理ある戦へと導くことを誓う」

 その低い声は、火の爆ぜる音に負けず、輪の隅々まで届いた。

 ざわめきがひととき止まり、兵たちの視線が彼一人に集まる。

 源次は地面に膝をつき、棒で砂を削り、川と陣の略図を描き出した。その筆致は淀みなく、まるでずっと前から頭の中に刻まれていたかのようである。


 「夜半過ぎ、月が西に傾いた頃、我らは出立する」

 砂に刻まれる線が、川から浅瀬へと延びてゆく。

 「丑の刻、大潮の干潮にて、佐久間川は最も浅くなる。そのとき渡る」

 兵たちの目が川を示す線に吸い寄せられる。

 「渡河に要する時間は半刻――一時間だ。音を立てぬよう、足には布を巻く。鎧の金具もすべて布で覆え」

 言葉の一つひとつが、具体的で迷いがない。彼らは次第に、ただ不安げに耳を傾けるだけの者から、実際に作戦を思い描き、動こうとする者へと変わっていった。

 「対岸に到った後、夜明けまで待機する。霧が最も濃い時刻、我らは武田の陣の心臓を突く」


 言葉が終わると同時に、数名の兵が身じろぎをした。そのうちの一人が、おずおずと口を開いた。

 「……だが、もし霧が出なかったら? 敵に見つかれば、我らはただの餌食にござろう」

 場に再びざわめきが走る。最もな疑問だった。

 源次は顔を上げ、すぐに答えた。待っていたかのように、声音に確信を宿して。

 「霧は必ず出る」

 焚き火の炎が彼の瞳に映え、揺るぎない光を放った。

 「なぜなら、この川は夜ごと冷え、地が息を吐くゆえだ。地面に冷気が溜まり、水の気を吸い上げ、白息と化す。晴れ、風なき夜明け前――そのとき必ず霧は川を覆う。これは勘ではない。幾日も観察し、何度も見届けてきた理だ。霧は……必ず、出る」

 その説明は、この時代の兵でも理解できる言葉でありながら、まるで自然の理を掌に収めているかのような響きを持っていた。

 再び沈黙。だが今度は不安からではなかった。兵たちは互いの顔を見合わせ、頷き合った。そこに浮かぶのは、疑念ではなく「信じてもよいかもしれぬ」という安堵であった。


 だが、若武者の一人がさらに問うた。彼は侍としての立場から、より戦術的な疑問を投げかける。

 「たとえ霧が出ても、我らは三十。敵は数百。大将の首を挙げられるとは思えませぬ。何をもって我らの勝ちとするのでございますか」

 源次は頷いた。その問いに答えることで、足軽たちにも作戦の全貌が伝わる。

 「我らの狙いは、敵将の首ではござらん」

 侍への敬意を示す丁寧な口調で始め、皆が息を呑むのを見計らって、力強い言葉に切り替えた。

 「狙うはただ三つ。――兵糧、馬、そして陣幕だ」

 源次は砂の図を指し示す。

 「霧に紛れ、敵陣の兵糧に火を放つ。馬を繋ぐ縄を切り、陣中に解き放つ。そして陣幕を切り裂き、支柱を薙ぎ倒す。それだけだ」

 兵たちは顔を見合わせた。

 「……それだけで、いいのか?」足軽の一人が呟く。

 「そうだ。それだけで勝てる。なぜなら、霧の中で糧秣が燃え、馬が暴れ、陣が崩壊すれば、敵は何が起きたか分からなくなる。『大軍に襲われた』と錯覚し、統制を失い、自滅するのだ。我らは敵を斬るのではない。敵に同士討ちをさせ、混乱の極みへと突き落とす。それが我らの勝利だ」

 その言葉に、兵たちの目が見開かれた。力ではなく、知恵で大軍を打ち破る――その鮮やかな戦術に、武者震いを覚えたのだ。


 「この策で最も恐ろしい敵は、武田ではない。我らの心の中にある恐怖だ」

 火の粉が舞う中、源次はゆっくりと輪の中を歩いた。

 「暗闇と霧は、敵だけでなく我らの目も奪う。だが、忘れるな。おのおのは一人で戦うのではない。三十人が一つの槍となり、敵の心臓を突くのだ」

 兵たちの胸が高鳴り、拳を握りしめる音すら聞こえるようだった。

 「俺を信じろとは言わん。だが、俺が積み重ねてきたこの理を信じろ。それは人の思惑に揺らがぬ、大地と川と天が織りなす必然だ」

 声が強くなり、響き渡る。

 「理を信じれば、必ず夜は明ける! そのとき、我らの刃は武田の首を掻き切るのだ!」

 刹那、場を支配していた重苦しい空気が破れた。

 兵たちの顔から不安の色は消え、代わりに燃えるような光が宿る。もはや源次を「漁師上がりの足軽」と見る者はいない。勝利をもたらす唯一の将――そう映っていた。


 「おおっ!」

 低く、だが力強い鬨の声が、三十の喉から響き渡った。

 広場に焚き火の炎が爆ぜ、夜空の星々がその声を聞くかのように瞬いた。

 その瞬間、決死隊の心は一つとなった。

 そして誰もが信じた。明けの刻、霧が川を覆うとき、井伊に新たな歴史が刻まれるのだと。

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