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第35節『反発と信認』

第35節『反発と信認』

 「まことにございます」

 源次がそう答えた瞬間、評定の間に期待を孕んだ緊張が走った。

 彼の言葉に宿る圧倒的な確信が、座中の者たちの心を掴みかけていた。だが次の瞬間、その空気を切り裂く声が轟いた。


 「――お待ちくだされ!!」

 鋭い叱咤のような声とともに、中野直之が立ち上がった。

 彼の顔は紅潮し、握りしめた拳が震えている。その瞳は、まず源次を侮蔑の色を込めて睨みつけ、次いで井伊直虎を真っ直ぐに射抜いた。

 「殿! この策、断じて容れられませぬ!」

 直之の声は怒気を含んでいた。

 「この者の申す理、確かに聞こえは良い。だが、所詮は素性も知れぬ漁師上がりの戯言! その口車に乗り、井伊家を滅ぼすおつもりか!」

 評定の間に低いざわめきが広がる。直之はそれを待たずに、さらに声を強めた。

 「第一に、霧や潮は天の気まぐれ。万が一、条件が揃わなかった場合は如何いたす! 渡河の最中、敵の矢雨を浴び、我らは無惨に討ち取られるでしょう!」

 彼の論は次第に熱を帯び、家臣たちの胸を打つ。実際、渡河中の軍は最も脆弱だ。

 「そして第二に!」

 直之は刀の柄を叩き、響く音とともに言葉を放った。

 「たとえ奇襲が叶い敵陣を破ったとしても、兵力差はいかんともしがたい! 我ら井伊の手勢は武田に比してあまりに少なく、返り討ちにあうは必定! 殿! この男の策は、井伊家を滅ぼす毒酒にござる!」

 「中野殿の言う通りだ」「素性の知れぬ者の言葉に惑わされるな!」

 一度は源次に傾きかけた年長の家臣たちが、その現実的な指摘に頷き、場の空気は再び反対派に傾いていった。


 源次はただ、深く頭を垂れて黙っていた。彼は争うためにここにいるのではない。自らの策を示し、その重さを当主に委ねるためにいる。

 だが、反対の声だけがすべてではなかった。

 「……しかし!」

 声を上げたのは、若い侍の一人だった。彼は緊張で声を震わせながらも、必死に言葉を紡いだ。

 「このままでは、我らはじり貧で滅ぶのみ! あの足軽が申す策には、一縷の望みがあります!」

 それに呼応するように、他の若手も立ち上がる。

 「そうだ! 足軽風情と侮るなかれ! この源次とやらが示した勝機は、ただの勘ではない! 我らはその理を信じる!」

 「確かに危険な賭けでしょう。されど、現状を打ち破る唯一の光明にござる!」

 声は小さくとも、熱は強い。

 やがて評定の間は、現実的なリスクと源次への不信を抱く保守派と、論理的な可能性に賭ける革新派に割れた。互いの声は重なり合い、罵声に近いものさえ飛び交う。


 その中心に座す直虎は、目を閉じたまま微動だにしない。

 (中野の言うリスクは正しい。だが、このままでは戦わずして滅びる……)

 彼女の脳裏に浮かんだのは、飢えに苦しむ領民の顔だった。井伊谷を守るために、彼女は女ながら地頭を継いだ。その責務を果たせず、ただ衰亡を待つなど、あまりに惨い。

 静かに瞼を開け、源次を見据える。

 (……あの目。あの男は、ただの漁師ではない)

 源次はなおも頭を下げ続けている。だが直虎の目には、彼の背が不思議なほど大きく見えた。その姿は「我が身を捨てても家を救おう」とする覚悟に満ちていた。

 (彼は己の策に命を賭けている。そして……その眼差しには、理屈を超えた確信がある)


 「静まれ!!」

 直虎の一喝が、評定の間を震わせた。ざわめきも怒声も、一瞬で霧散する。

 家臣たちは息を呑み、当主の言葉を待った。

 直虎はゆっくりと立ち上がり、家臣たちを見渡した。

 「中野の申すこと、尤もである。この策は危うい」

 その一言に、反対派は勝ちを確信したように顔を上げる。だが続く言葉は、誰も予想しなかったものだった。

 「されど――正しさのみでは、この窮地は乗り切れぬ。我らは既に袋の鼠。時を待てば兵糧は尽き、士気は潰え、滅ぶのみ。ならば、最後の機会に賭けぬ理由があるか」

 直虎の声は震えてはいなかった。だが、言葉の奥には計り知れぬ孤独が滲む。

 (これは……賭けだ。中野の示す現実ではなく、源次の示す理に賭ける決断)

 彼女は再び源次を見据える。その目には、未来への光が宿っていた。

 「我が意は決した」

 直虎の宣言は、静寂の中に鋭く響き渡った。

 「源次の策――採用する」

 一瞬、誰も息を呑めぬほどの沈黙が落ちた。次いで、中野直之が愕然とした顔で立ち尽くす。

 「な……殿……!」

 だが直虎は視線を逸らさぬ。凛とした声で言い放つ。

 「その潮、信じてみようぞ」

 若き侍たちから歓声が上がる。反対派は顔を歪め、直之は拳を震わせる。

 源次は、深く深く頭を下げた。

 顔を上げることはできない。ただ胸の奥で、熱いものが込み上げていた。

 (……信じてくれた。俺の理を、俺という存在を……)

 その信認の重みが、全身を貫いた。

 その瞬間、井伊家の運命は大きく動き出したのであった。

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