第346節『最高の褒美』
第346節『最高の褒美』
武田の脅威が去り、浜松城に安堵が広がってから、数日後のことだった。
城内はまだ戦の傷跡により、冬の冷たい風が吹き抜けていたが、その空気の中には確かな再生の気配が満ちていた。
その日、井伊家の軍師・源次は、徳川家康その人によって、城の奥深く、彼の私室へと丁重に招かれた。
部屋には、家康と、その傍らに静かに控える酒井忠次、そして源次の三人がいるだけだった。
家康は、庭に舞い始めた粉雪を背に、源次の前に静かに座した。
やがて、彼はゆっくりと畳に両手をついた。そして、三河武士の棟梁としての、その誇り高き頭を、深々と下げた。
「……源次殿。済まなんだ」
その声は、低く、かすれていた。「儂は、そなたの警告に耳を貸さず、我が武勇を過信し、多くの家臣を死なせた。そなたがいなければ、徳川は滅んでいた。この恩、終生忘れぬ」
源次は、その重い言葉を、静かに受け止めた。
家康は顔を上げると、傍らの忠次に目配せをした。忠次は、静かに一つの巻物を広げた。
「……礼をしたい」と家康は続けた。「そなた個人の功に報いるため、遠江国内に新たに五千石の領地を与える。これは、忠次とも合議の上で決めた、我が徳川家の総意じゃ。受け取ってほしい」
五千石――それは、徳川家が他家の家臣に示すものとしては、ありえないほどの破格の待遇だった。
だが、源次は静かに首を横に振った。
「……お気持ち、痛み入ります。されど、お受け取りはできませぬ。私の主君は、井伊直虎様ただ御一人。私が望むは、領地ではございません。ただ、徳川殿と共に、この乱世を終わらせるための、絆にございます」
その私欲のない言葉に、家康は、目の前の若者の器の大きさに、改めて心から感服した。
「……分かった」
家康の口元に、どこか嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「ならば、最高の褒美をやろう。……いや、褒美ではないな。儂からの、願いだ」
彼は、自らの腰に差していた一振りの脇差を抜くと、それを源次の前に置いた。
「かつて、儂はそなたを『友』と呼んだ。それはそれで、儂個人の心からの言葉じゃった。だが、今は違う」
彼の眼差しが、真剣な光を宿す。
「徳川家の棟梁として、そなたと、そなたが仕える井伊家を、ただの陪臣ではない、我が徳川の浮沈を共に担う『真の盟友』として迎えたい。この脇差は、その誓いの証。これより先、徳川と井伊の間に、隠し立ては一切無用とする。……受けて、くれるか」
それは、主君が陪臣に下すものではなかった。
対等な男が、もう一人の男に、未来を共に歩むことを乞う、魂の言葉だった。
源次は、その言葉の重さを静かに受け止め、深々と、その脇差を押し頂いた。
その光景を、襖の陰から、本多忠勝と榊原康政が、息を殺して見つめていた。
彼らの顔には、驚愕と、嫉妬と、そして、認めざるを得ないという複雑な感情が、渦巻いていた。
主君が、陪臣の若者に、自らの魂を差し出し、対等な盟約を乞うたのだ。
こうして徳川家と井伊家の力関係が、今、この瞬間、決定的に変わったのであった。




