第345節『九死に一生』
第345節『九死に一生』
浜松城に、信じがたい報せがもたらされたのは、武田信玄がその生涯を閉じてから、数日後のことだった。
「――武田軍、甲斐へ向け、全面的に撤退を開始! 野田城の包囲を解き、遠江からも完全に兵を引いております!」
物見櫓から放たれたその叫びは、当初、誰にも信じられなかった。
あれほどの猛威を振るった甲斐の虎が、なぜ。
将たちは、それを信玄の新たな罠ではないかと、固唾をのんで警戒を続けた。
だが、服部半蔵配下の忍びがもたらした「信玄、病状悪化。事実上の総退却に相違なし」という決定的な情報により、城内は一転して、爆発的な歓喜に包まれた。
「おおおおっ!」「助かった!」「我らは生き残ったのだ!」
兵たちは、武器を放り出し、抱き合い、涙を流して天運に感謝した。
三方ヶ原の悪夢から続いた、長く暗い冬が、ようやく終わったのだ。
その熱狂の渦から一人離れ、家康は天守閣の最上階にいた。
彼は、欄干に身を預け、武田の軍勢が完全に消え去った北の空を、ただ無言で見つめていた。
九死に一生を得た。その安堵感と同時に、彼の胸を占めていたのは、自らの力では何も成し得なかったという、深い無力感だった。
「……助かったのか。我らは……」
その呟きは、誰に言うでもなく、冬の終わりの冷たい風に溶けていった。
そこへ、静かな足音と共に、酒井忠次が姿を現した。
「……殿」
彼は、主君の背中に、静かに声をかけた。
「天運だけに感謝するのは、ちと早計かと存じまする」
家康が、訝しげに振り返る。
忠次は、主君の隣に並ぶと、同じように北の空を見やりながら、この戦の、もう一つの真実を語り始めた。
「殿。お忘れか。武田が我らを攻めあぐね、撤退を決意したその裏で、常に奴らの背後を脅かし続けていた存在があったことを」
彼の視線が、浜名湖の方角へと向けられる。
「井伊の水軍。そして、それを率いる源次殿。彼らが湖上から我らに命の米を届け、浜松の士気を蘇らせた。そして何より、彼らが我らの背後で牙を研いでいるという事実そのものが、馬場信春という宿将に『挟撃』の悪夢を見せ続け、その足を完全に縛り付けたのでございます」
忠次は、一度言葉を切った。
「武田は、我らを恐れて退いたのではありませぬ。我らの背後に潜む、あの得体の知れぬ軍師の影を恐れて、退いたのです。我らは、知らぬうちに、井伊の者に救われておりましたな」
その老練な家老の冷静な分析に、家康は言葉を失った。
そうだ。自分は、ただ天運に救われたのではない。
あの男が、自分がかつて侮り、警告を無視したあの男が、描いた盤面の上で、かろうじて生かされていたに過ぎないのだ。
その事実は、棟梁としての彼のプライドを深く傷つけた。だが同時に、彼の胸には、安堵とも、畏怖とも、そして感謝ともつかぬ、複雑な感情が込み上げていた。
徳川家は、最大の危機を乗り越えた。
しかし、それは自らの力による勝利ではなかった。
その事実が、家康の胸に、井伊家と、そして源次という男に対する、新たな、そして決定的な評価を刻みつけることになった。
彼はもはや、ただの盟友ではない。
自らの命運を左右する、唯一無二の存在なのだ、と。