第344節『虎の遺言』
第344節『虎の遺言』
三河国、野田城。
武田信玄の本陣は、もはや軍勢の体をなしていなかった。
それは、主を失い、進むべき道を見失った者たちの、巨大な迷いの塊だった。
天幕の中で開かれた軍議は、重臣たちの怒号と嘆息で満ちていた。
その混乱を鎮めたのは、病床から身を起こし、やつれた姿で現れた信玄その人だった。
「……皆、静まれ」
その声はかすれていたが、絶対的な威光は失われていなかった。
「……天は、儂に京の都を見せてはくれぬようだ。此度の上洛、これにて断念する」
その一言に、将たちは息を呑んだ。最強軍団の夢が、潰えた瞬間だった。
だが、信玄の目はまだ死んではいなかった。
「されど、このまま手ぶらで甲斐へは帰れぬ。我らが流した血の証として、この遠江は完全に武田の庭とする。そのためには、背後に残した棘を抜かねばならぬ」
彼の弱々しい指が、地図の上の浜松城と、そして井伊谷を指し示した。
その言葉に、山県昌景が待っていましたとばかりに進み出た。
「御意! 浜松の若造はもはや籠の鳥! 問題は井伊にございます! 度々議題となる忌々しい鼠どもこそ、我らの最大の障害となるやもしれませぬ。後顧の憂いを断つためにも、根絶やしにしておかねばなりませぬ。」
彼の主張は、もはや単なる報復論ではなかった。遠江を武田の領地とするための、戦略的な最終仕上げとして、井伊谷の殲滅を説いたのだ。
その、まさに井伊家の運命が決しようとした瞬間。
天幕の外から、伝令の叫び声が響いた。
「浜松の馬場様より、急報にございます!」
天幕の中に、張り詰めた静寂が戻る。
使者が届けた書状を、内藤昌豊が朗々と読み上げた。
――浜松城に、井伊水軍による補給が成功。城は息を吹き返し、士気も高い。
――井伊の軍師は底知れず、今もなお水軍が我が背後を脅かす気配あり。
そして、最後の一文は、最前線の指揮官からの悲鳴にも似た警告だった。
――この状況で井伊谷へ下手に手を出せば、回復した徳川軍と井伊水軍に挟撃され、我ら馬場隊は殲滅される危険性、極めて高し。
山県は「馬場殿は臆病風に吹かれたか!」と激昂するが、他の将は馬場の慎重論と昨年の敗北を思い出しなかなか同調する者がでなかった。
将たちの脳裏には、不気味な井伊の軍師像が出来上がっていた。
天幕の中央で、信玄が深く、長い咳をした。
血を吐くような、苦しげな咳だった。
彼は、自らの身体が、もはや一つの城を攻め落とす時間すら残されていないことを、誰よりも悟っていた。
「……この状況では……遠江の攻略は、骨が折れるわ。次の機会だ……今は全軍、甲斐へ……退くぞ……」
それが、甲斐の虎が下した、最後の軍令だった。
その直後、信玄の容態は急変した。
これ以上の滞陣は不可能と判断した重臣たちは、ついに甲斐への全面撤退を決断する。
病に伏せる主君を、輿に乗せて。
その帰路の途中、信濃国、駒場。
信玄は、側近を呼ぶと、最後の遺言を告げた。
「……我が死を、三年の間、秘せ」
そして、彼は静かに、その波乱の生涯に幕を下ろした。
時に、元亀四年四月十二日。
戦国最強と謳われた巨星が、京の都を夢見ながら、その道半ばで、静かに墜ちた。
主君の死を秘匿したまま、武田軍の撤退は続いた。
その隊列には、もはや覇気はなかった。
将たちは顔を伏せ、兵たちはただ黙々と歩を進める。
戦国最強を誇った軍団の、あまりに静かで、そして寂しい退却だった。
その報せが、浜松城の家康と、井伊谷の源次の元へ届くのは、それから数日後のことである。
歴史の巨大な潮が、誰もが予期せぬ形で、その流れを変えようとしていた。