第343節『武田の誤算』
第343節『武田の誤算』
三河国、野田城。
武田信玄の本陣は、勝利の熱気とは程遠い、重苦しい空気に満ちていた。
城はすでに包囲下にあり、落城は時間の問題。だが、将たちの顔に戦勝の昂りはなく、代わりに深い憂慮の色が浮かんでいる。
彼らの視線が注がれる先、天幕の奥。主君である信玄が、病の床に臥していた。
その静寂を破ったのは、浜松方面から土煙を上げて駆け込んできた早馬だった。
馬場信春からの急報。
軍議の席で、その書状が山県昌景によって読み上げられた瞬間、将たちの間に激しい動揺が走った。
「――浜松城、息を吹き返す。井伊水軍なる者たちの手により、兵糧の補給が成りたる由」
「……馬鹿な!」
一人の将が声を上げる。「飢え殺すはずであった籠の鳥が、翼を得たと申すか!」
書状は、さらに衝撃的な内容を告げていた。
馬場は、浜松城の復活と、背後を脅かす井伊水軍の存在を理由に、「これ以上の西進は兵站が危険にございます。一度、浜松を確実に叩くべき」と、進軍停止を進言してきたのだ。
「何を血迷ったことを!」
山県昌景は、書状を叩きつけるように机に置いた。
「馬場殿も、先の敗戦で臆病風に吹かれたか! 目の前の京を捨て、鼠一匹のために戻れと申すか! 御館様の偉業を、ここで止める気か!」
彼の言葉に、多くの若手武将が同調する。上洛の夢は、目前なのだ。
だが、内藤昌豊ら一部の宿将たちは、険しい顔で黙り込んでいた。
「……いや、馬場殿の懸念、尤もやもしれぬ。兵站なくして、大軍は維持できぬ。孫子の兵法にも……」
「黙れ! 今は理屈をこねる時ではない!」
天幕の中は、西進を主張する主戦派と、兵站の危機を訴える慎重派とに分裂し、怒号が飛び交い始めた。
これまでであれば、信玄の一喝ですべてが収まったはずだった。
だが、その絶対的な裁定者は、今、病の闇に沈んでいる。
「――御館様が!」
天幕の奥から、側近の悲鳴にも似た声が響いた。
将たちが駆けつけると、信玄は荒い息を繰り返し、その額は脂汗で濡れそぼっていた。目は虚ろで、もはや誰の顔も見分けていないかのようだった。
「……水……京は、まだか……」
うわ言のように繰り返される言葉。
甲斐の虎と呼ばれ、天下をその手に掴みかけた男の、あまりに弱々しい姿だった。
その光景を前にして、将たちは言葉を失った。
絶対的な太陽を失った惑星のように、武田家という巨大な組織は、その進むべき道を見失い始めていた。
西へ進むべきか、東へ退くべきか。
答えを出せる者は、もはや誰もいなかった。
源次が放った、ささやかな一手。
浜松城への、わずかばかりの兵糧。
それが、最強軍団の心臓部に、致命的なまでの混乱と、分裂の種を蒔いていた。
武田家の運命の歯車が、静かに、しかし確実に、狂い始めていた。