第342節『籠城継続』
第342節『籠城継続』
奇跡の一夜が明けた浜松城は、まるで別の城のように生まれ変わっていた。
絶望の淵から引き戻された兵士たちの顔には、生気がみなぎっている。腹を満たした彼らは、槍を磨き、傷んだ城壁を修復し、再び武田軍を迎え撃つための準備を、自らの意志で始めていた。城内には、もはや敗残兵の呻き声ではなく、鍛冶場から響く槌音と、兵たちの力強い掛け声が満ちていた。
その熱気の中心に、徳川家康がいた。
彼は、評定の間に重臣たちを集めると、もはや迷いのない、将としての威厳に満ちた声で命じた。
「皆、聞いたな。我らは、生き永らえた。だが、戦はまだ終わっておらぬ」
彼の視線が、地図の上に置かれた浜松城の駒を捉える。
「先に井伊より進言のあった通り、これより我らは徹底した籠城策に移行する。城外の馬場隊を挑発することなく、守りを固め、時を稼ぐのだ」
その言葉に、本多忠勝ら猛将たちも、もはや異論は唱えなかった。彼らもまた、この奇跡的な補給作戦を目の当たりにし、小手先の知略ではない、大局を見据えた戦略の重要性を、骨身に染みて理解していたのだ。
一方、城外に陣を敷く馬場信春の元にも、浜松城の異変はすぐに伝わっていた。
城内から立ち上る夥しい炊煙。そして、これまで鳴りを潜めていた城壁から、再び徳川の兵たちが姿を現し、守りを固め始めたという報告。
(……やりおったか)
馬場は、天幕の中で地図を睨み、静かに歯噛みした。補給が成功したことは、もはや疑いようもなかった。
彼の懸念は、別の、より深刻な事態へと移っていた。
(浜松城が息を吹き返した。これで、奴らは再び戦う力を得た。そして、我が背後には、あの得体の知れぬ井伊水軍が潜んでおる……)
彼の指が、地図の上を神経質に滑る。
もし、井伊水軍が浜名湖から天竜川を遡り、信濃へと続く我が軍の兵站線を脅かせばどうなるか。そして同時に、力を取り戻した徳川の本隊が城から打って出てくれば。
(……挟撃される)
その二文字が、歴戦の将の背筋を冷たくした。
自分は、井伊の動きを封じ込める「重石」のつもりでいた。だが、気づけば、復活した徳川軍と、神出鬼没の井伊水軍という、二つの脅威に挟まれる危険な立場へと、追い込まれていたのだ。
(……あの軍師め。浜松を救うと同時に、この儂を、逆に袋の鼠にしようというのか)
馬場は、これ以上の単独での牽制は危険だと判断した。
彼は筆を取ると、西へ進軍している信玄本隊へ、現状を報告し、次なる指示を仰ぐための使者を送ることを決断した。
この戦は、もはや彼の手に負える範囲を超え始めている。
その事実が、彼の武人としての誇りを、深く傷つけていた。