第341節『家康の涙』
第341節『家康の涙』
天守閣の最上階は、別世界のように静まり返っていた。
眼下では、地鳴りのような歓声が城全体を揺るがし、兵たちが米を手に涙を流して喜んでいる。その熱狂を、徳川家康はただ一人、欄干に身を預け、無言で見下ろしていた。
やがて、背後の階段を登ってくる、重々しい足音がした。
酒井忠次だった。彼は、主君の前に進み出ると、一つの木の椀を、恭しく差し出した。
湯気の立つ、炊きたての白い米。
「……殿も、お召し上がりくだされ。これは、城に届いた最初の米にございます」
家康は、その椀を、震える手で受け取った。
米粒が、月明かりを受けて白く輝いている。その温もりが、凍てついていた彼の指先に、じんわりと染み渡った。
忠次が静かに退出していくと、再び一人になった。
彼は、その椀を唇に運ぶことができなかった。
彼の脳裏に、この米を食べることなく死んでいった、多くの家臣たちの顔が、次々と浮かび上がってきたからだ。
三方ヶ原の泥濘の中、「殿、お逃げくだされ!」と叫び、自らの兜を家康にかぶせて敵中に消えていった、夏目吉信の、血に濡れた笑顔。
我が身を盾とし、武田の槍に貫かれながら、「三河武士の意地、お見せ申した!」と、最後まで笑って死んでいった、鳥居忠広の姿。
「……すまぬ」
彼の喉から、かすれた声が漏れた。
「お前たちは、儂のために死んでいったというのに。この儂は……生き残って、こうして温かい飯を食おうとしておる……」
自らの采配の過ちが招いた、あまりにも大きな犠牲。
棟梁として、その全ての責めを負う覚悟はあった。だが、彼らの死を前にして、自分だけが生き残ってしまったという罪悪感が、彼の心を容赦なく苛んでいた。
彼は、米の入った椀を床に置くと、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
そして、これまで決して人前では見せなかった、深い悔恨と、言葉にならぬ感謝の涙を、堰を切ったように流し始めた。
嗚咽が、静かな天守閣に響き渡る。
それは、三河武士の棟梁としてではない。
ただ、多くの仲間を失い、それでも生き残ってしまった、一人の弱い男の、魂からの涙だった。
どれほどの時が過ぎただろうか。
涙が枯れ果てた頃、彼はゆっくりと顔を上げた。
そして、床に置かれた椀を、再び手に取った。
その瞳には、もはや弱さの色はない。
死んでいった者たちの想いを、その全てを背負い、それでもこの地獄を生き抜くのだという、将としての、鋼のような決意が宿っていた。
彼は、米を一口、口に含んだ。
その、あまりにも優しい甘さが、彼の魂に染み渡った。
この命を、この温もりを、繋いでくれた男がいる。
「……源次」
その呟きは、もはや盟友への呼びかけではなかった。
自らの過ちを正し、絶望の淵から救い出してくれた、唯一無二の存在への、魂からの呼びかけだった。
彼は、残りの米を、一粒一粒噛みしめるように、静かに食べ終えた。
その一椀の米が、彼に、再び立ち上がる力を与えてくれたのだ。