第340節『城内の歓声』
第340節『城内の歓声』
浜松城は、死の淵にいた。
城内を満たしていたのは、もはや戦への恐怖ではない。ただ、静かで、抗いようのない「飢え」という名の絶望だった。兵糧蔵は完全に空となり、兵士たちは粥すらすすれず、ただ壁に寄りかかって虚ろな目で空を眺めるだけ。武勇を誇った三河武士たちも、槍を握る力さえ失いかけていた。
このまま、あと一日、いや半日もすれば、城は内側から崩壊する。誰もが、そう確信していた。
その、静まり返った城内に、突如として、これまで聞いたこともないような種類の喧騒が響き渡った。
それは、城の裏手、湖へと続く秘密の抜け道の方角から聞こえてきた。
「――何事だ! 敵襲か!?」
見張りの兵が、最後の力を振り絞って叫ぶ。
だが、聞こえてきたのは悲鳴ではなかった。
「……米だ」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「米俵だ! 山のような米俵が、城に運び込まれてくるぞ!」
その一言が、引き金だった。
虚ろだった兵士たちの目に、にわかに光が宿る。
一人、また一人と、壁から身を起こし、よろめきながらも喧騒のする方へと向かっていく。
そして、彼らが見たのは、信じがたい光景だった。
酒井忠次が率いる決死隊と、見知らぬ井桁の旗を掲げた兵たちが、肩を並べ、汗と泥にまみれながら、次々と米俵を城内へと運び込んでいる。その俵の数、百や二百ではない。蔵を満たすには十分すぎるほどの、圧倒的な量だった。
その光景が現実であると知った瞬間、城内は地鳴りのような歓声に包まれた。
「米だ!」「助かった!」「我らは生き残れるぞ!」
飢えと絶望の淵にいた兵たちは、涙を流して抱き合い、井伊家の旗が掲げられていたであろう東の方角に向かって、感謝の叫びを上げた。
すぐに、城内の炊き出し場から、もうもうと湯気が立ち上った。
運び込まれたばかりの米が、大釜で炊かれ始める。米が炊ける、甘く香ばしい匂いが城内へと広がる。その匂いを嗅いだだけで、兵たちはよだれを垂らし、腹の虫を鳴らした。
やがて、炊きたての米が、木の椀によそわれ、兵たち一人ひとりの手に渡されていく。
一人の若い兵士が、その椀を、震える手で受け取った。温かい。
彼は、夢中でその米を口へと掻き込んだ。
米の甘みが、乾ききった口の中に広がる。
その瞬間、彼の目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……うめえ」
その一言は、嗚咽に変わった。
生きている。俺は、まだ生きられる。
その単純な、しかし何よりも強い実感が、彼の魂を揺さぶったのだ。
その熱狂は、城壁を越え、城を牽制していた馬場信春の陣にまで、かすかに届いていた。
「……何だ、あの声は」
馬場は、物見櫓の上から、浜松城の方角を睨んだ。
城内から立ち上る、夥しい数の炊煙。そして、地鳴りのように響いてくる、敗者のそれとは思えぬ力強い歓声。
彼は、全てを悟った。
(……やられたか。あの軍師め、この嵐に乗じて、補給を成功させおったか)
彼の顔から、表情が消えた。
「全軍に伝えよ」
その声は、氷のように冷たかった。
「これより、浜松城への警戒を最大に引き上げよ。飢えた狼はもはやおらぬ。腹を満たし、牙を研ぎ直した、手負いの獣がそこにいると思え」
彼は、この戦が新たな段階に入ったことを、肌で感じ取っていた。
徳川家は、九死に一生を得たのだ。
その奇跡の光景を、天守閣の最上階から、一人の男が、静かに見下ろしていた。