第34節『軍議での進言』
第34節『軍議での進言』
佐久間川のほとりに設けられた評定の間。
といっても、立派な屋敷などではない。敵の矢を避けるための粗末な陣幕が張られ、中央には畳数枚が敷かれただけの場であった。
その中央に井伊家当主・直虎が座し、左右に重臣たちが控える。皆、鎧姿のまま膝を揃えているが、その表情は暗い。数日に及ぶにらみ合いで兵糧は減り、兵の士気も目に見えて落ちていた。
「和睦を受け入れるのも、一策ではございますな」
年配の家老がそう口にした瞬間、場の空気がさらに重く沈む。それは敗北を認める言葉であった。
直虎の眉が僅かに動いた。彼女は口を閉ざしたまま、扇の骨をきしませるほど握り締めている。苛立ちを隠しきれない。
他の家臣も顔を見合わせるばかりで、有効な策を示す者は誰一人いない。武勇に鳴らす中野直之でさえ、無謀な強行突破が何を招くかを理解しているため、唇を結んで沈黙していた。
その末席に、二つの場違いな影があった。源次と、彼に付き添う重吉だ。
本来、足軽風情がこの場にいることは許されない。だが、犬居城での功績と、何よりこの膠着状態を打開する策を渇望する直虎の特命により、二人は末席に座ることを許されていたのだ。
源次は己の胸の内にある計画の鼓動を抑え込み、重吉は「お前の理をぶつけろ」と目で促す。
源次は深く息を吸い込み、畳に手をつき進み出た。
「……姫様」
その声は、最初、掠れていた。だが評定の間に響いた瞬間、家臣たちの視線が一斉に源次へ突き刺さる。
「な、足軽が……!」
「無礼者! 何を言い出すか!」
怒号が湧き上がる。特に中野直之が膝を進め、手を柄にかけた。
「身の程を弁えよ! この場は武士の評定ぞ!」
源次は額を畳に擦りつけるほど深く頭を下げ、震えぬ声で告げた。
「一足軽の分際、重々承知しております。しかし……この膠着を破る策、愚考いたしました」
「黙れ!」「打ち首にせよ!」
喧噪の中で、直虎が扇を軽く掲げた。その瞬間、声が止む。
「……申してみよ」
静かに放たれた一言が、雷鳴のように響いた。
家臣たちは凍り付いた。一介の足軽に発言を許すなど、前代未聞。
源次は頭を下げたまま、「ははっ」と応じ、懐から木炭を取り出した。そして畳に広がる土の上に、迷いなく線を引き始めた。川の流れ、浅瀬、陣の配置。その手つきは足軽のものではなく、まるで長年の軍師が行う作業のようであった。
「拙者、もとより漁に従事しておりました。あくまで漁師の知恵にすぎませぬが――」
源次はそう前置きし、川の線を指でなぞる。
「この佐久間川は、海の潮に繋がっております。かつて堤の普請にて申し上げた通り、満ち引きに合わせ、半日に一度、水位が下がるのです」
その言葉に、数人の家臣がはっとした顔で頷いた。治水工事の成功は、まだ記憶に新しい。
「何だと……?」「馬鹿な、そんな話――」
知らぬ者から嘲笑が混じる。だが源次は顔を上げ、揺るがぬ声音で続けた。
「干潮の折、川の流れが弱まり、浅瀬が現れます。人が渡ることができるのは、その刻限に限られます」
彼は指で印をつける。次に、夜明け前の空を示すように手を掲げた。
「さらに……晴れて風のない夜、夜明け前には必ず霧が出ます。それは漁の折、幾度も目にしてきたこと。この数週間、一日たりとも外れておりませぬ。音も影も隠す、天然の帷子でございます」
家臣たちが顔を見合わせる。彼の言葉は抽象的な勘ではなく、観測に基づく事実だった。否定の声が徐々に小さくなっていく。
源次は一拍置き、最後の駒を置くように言った。その声音はもはやただの進言ではなく、広間全体を支配するような力強さを帯びていた。
「そして、敵。武田の使者が和睦を口にしたと聞き及びます。長きにわたる対陣に、武田も倦み疲れており、我らを侮っている証拠」
彼の指が地図の一点を突いた。
「三日後、大潮の干潮は夜明け。そのとき晴れていれば必ず霧が出る。そして敵は、必ず油断しております。地の利、天の時、人の和――三つの好機が重なります。これこそ、我らに与えられた勝機と存じます」
評定の間に、沈黙が落ちた。
先ほどまで源次を罵倒していた家臣たちが、誰一人言葉を発せぬ。彼の言葉は漁師の知恵という皮を被りながらも、その実、孫子の兵法にも通じる理路整然とした戦略だった。その瞳に宿る圧倒的な確信が、座中の者たちの心を射抜いていた。
彼らの目には、驚愕と疑念と、そして拭いきれぬ期待が混じっていた。
源次は再び深く頭を下げた。
「以上にて、口を慎みます。恐れながらも……我らに勝ち目はあると、愚考いたしました」
沈黙が続く。水を打ったように、すべての声が消えた。
やがて――
「……源次」
直虎の声が落ちる。
彼女の扇は閉じられ、ただその瞳だけが源次を射抜いていた。その眼差しは、驚きや疑念を超え、目の前の男の覚悟そのものを問うていた。
「その策、まことと思うか」
問いかけは家臣に向けられたものではない。ただ一人、源次に。
源次は頭を上げた。全身を貫く視線を正面から受け止め、声を震わせぬよう答えた。
「……まことにございます」
直虎の瞳がわずかに細められる。その一瞬の表情に、源次は確かに見た。
希望と、恐れと、決断の狭間に揺れる人の貌を。
評定の間に張り詰めた空気は、すでに先程とは別物だった。誰もが思っている。
――この足軽の言葉に、未来がかかっているのではないか、と。