第339節『帰還』
第339節『帰還』
夜が完全に明け、嵐もまた、その猛威を忘れたかのように過ぎ去っていた。
穏やかさを取り戻した浜名湖の湖面を、井伊水軍の船団が、朝日を浴びながら東へと帰路についていた。
船上には、極度の疲労と、それを上回る任務完遂の達成感が満ちていた。兵たちは、甲板に座り込み、あるいは仲間と肩を寄せ合い、言葉少なに、しかし確かな安堵の表情を浮かべている。
地獄のような一夜を、彼らは生き延びたのだ。
旗艦「竜神丸」の甲板では、此度の作戦の功労者たちが、それぞれの思いを胸に言葉を交わしていた。
「……へっ。あんたの潮読みは、もはや神の領域だな、源次」
権兵衛が、疲れた顔に似合わぬ豪快な笑みを浮かべ、源次の肩を叩いた。その目には、畏敬の念が深く刻まれている。
その隣で、新太は血に濡れた槍の手入れをしながら、静かに、しかし闘志を隠さぬ声で言った。
「……次は、必ず馬場の首を獲る」
彼にとって、戦はまだ終わっていなかった。
源次は、彼らの言葉に静かに頷きながら、一人、別のことを考えていた。
彼の視線は、仲間たちの安堵の表情ではなく、その先にある、見えざる未来の戦場へと向けられていた。
(……これで、徳川は生き延びる。浜松城は落ちない。だが、それは俺が知る歴史の結果と同じだ)
彼の脳裏には、歴史の年表が冷徹に広がっている。
(問題は、その先だ。この戦の後、信玄は病に倒れ、武田軍は甲斐へと引き返す。その時、だ)
その光景を想像すると、彼の胸は締め付けられた。
(史実では、井伊家は武田の大軍の前に降伏し、その軍門に降るはずだった。直虎様は、屈辱の内に頭を垂れるしかなかった。……俺の策は、その未来を回避した。だが、本当にそれで良かったのか?)
彼の胸に、軍師としての、そして歴史を知る者としての、深い恐怖がよぎる。
(屈辱を回避した代償として、俺たちは武田にとって『抵抗する厄介な存在』として、明確に認識されてしまった。史実では降伏を受け入れた武田軍が、信玄亡き後の撤退戦において、後顧の憂いを断つために、我ら井伊家を『抵抗勢力』として完全に殲滅しようとしたら……? 降伏ではなく、皆殺しという、もっと悲惨な未来を、俺は自らの手で招いてしまったのではないか?)
井伊谷の焦土作戦と籠城の備え。
俺がばら撒いた「井伊=危険」という偽情報。
そして、戦力を回復した浜松城の存在。
これらの布石は、武田軍に「井伊谷に構わず、真っ直ぐ甲斐へ帰るべきだ」と判断させてくれるだろうか。
それとも逆に、「これほど厄介な存在は、今のうちに根絶やしにすべきだ」と判断させてしまうのか。
それは、もはや計算ではじき出せる答えではない。
人の心を、歴史の流れそのものを相手にした、壮大な賭け。
(……頼む)
彼は、誰に言うでもなく、心の中で強く祈った。
(俺の策が、あの人の未来を、より過酷なものに変えてしまっていませんように……!)
源次は、仲間たちには決して見せぬ、軍師としての孤独な不安を、胸の奥深くに沈めた。
彼の視線は、故郷へと向かう航路の、さらにその先を見据えている。
この壮大な作戦の、源次が仕掛けた最大の賭けの、その結果を待つ、新たな始まりでもあった。
船団は、朝日の中を、ゆっくりと進んでいった。