第338節『任務完了』
第338節『任務完了』
入り江は、人間の意志が限界を超える、壮絶な光景と化していた。
源次の魂の叫びに奮い立った兵たちは、もはや疲労すら忘れたかのように、狂気にも似た気迫で米俵を運び続けていた。泥に足を取られ、倒れては起き上がり、仲間と肩を貸し合いながら、ただ一心不乱に船と陸を往復する。
だが、非情な現実は、彼らの背後、すぐそこまで迫っていた。
陸路を見張っていた斥候が、血相を変えて駆け込んできた。
「申し上げます! 谷の向こうに、武田の先鋒と思われる大軍の土煙を確認! このままでは、あと半刻ももちませぬ!」
その報せは、燃え盛っていた兵たちの心に、冷たい水を浴びせた。
半刻――。船には、まだ数十の米俵が残っている。
間に合わない。誰もが、そう思った瞬間だった。
「――聞こえるか! 井伊の方々!」
入り江の奥、浜松城へと続く秘密の抜け道から、松明の光と共に、新たな声が響いた。
茂みをかき分けて現れたのは、徳川の旗指物を背負った、百を超える兵たちだった。
酒井忠次が連れてきたのは、あくまで荷揚げを手伝うための最小限の人数。だが、彼らの後を追うように、城から新たな部隊が現れたのだ。
その先頭にいたのは、先の敗戦で深手を負い、治療所にいたはずの若武者だった。
「……我らを、置いていくな」
彼は、包帯を巻いた腕で槍を杖のようにつきながら、荒い息の下で言った。
「城でただ飢えて死を待つくらいなら、盟友と共に戦い、一俵でも多くの米を運んで死ぬ。それが三河武士の意地だ!」
彼の背後には、同じように傷の癒えぬまま、それでも戦うことを選んだ者たちが、覚悟の表情で立っていた。彼らは、忠次の独断を知り、自らの意志で、この最後の戦場へと駆けつけてきたのだ。
「遅れて申し訳ない! 我らも手を貸す!」
徳川の兵たちは、そう叫ぶなり、残っていた米俵へと殺到した。
井伊と徳川。二つの家の兵たちが、今、一つの目的のために、肩を並べて汗を流している。
「そら、こっちへ!」「任せろ!」
短い言葉。だが、その声には、共に死線を越える者同士の、確かな絆が生まれていた。
荷揚げの速度は、倍以上に跳ね上がった。
やて、遠くの山道に、武田軍の先鋒が掲げる騎馬隊の姿が、陽光を浴びてきらりと光った。
時間は、もう残されていない。
「――最後の一個だ!」
誰かが叫んだ。
最後の一俵が、兵たちの手を渡り、城へと続く闇の中へと運び込まれていく。
「全軍, 撤退!」
源次の号令が、入り江に響き渡った。
徳川兵は、深々と一礼すると、松明の光と共に抜け道へと姿を消していく。
井伊水軍の兵たちもまた、一斉に船へと駆け戻った。
彼らが船に乗り込み、権兵衛の号令で櫂を入れ、船団が入り江から離脱を始めた、まさにその時。
武田の先鋒が、鬨の声を上げて入り江へと雪崩れ込んできた。
その先頭にいた馬場信春が見たのは、もはやもぬけの殻となった入り江と、沖合へと遠ざかっていく井伊水軍の船団の、黒い影だけだった。
船団の最後尾、旗艦「竜神丸」の櫓の上で、一人の男が、こちらを静かに見つめているのが、かろうじて見て取れた。
「……あの男か」
馬場は、唇を噛みしめた。
またしても、この手で取り逃がした。
任務は、完璧に完了した。
紙一重の差で。
源次は、遠ざかる岸辺を見つめながら、全身の力が抜けていくのを感じていた。
彼は、櫓の柱に身を預け、静かに、しかし深く、安堵の息を吐いた。