第336節『決死の荷揚げ』
第336節『決死の荷揚げ』
二つの異なる戦いが、二つの異なる場所で、同時に始まった。
まず、陸の上。
狼煙を上げようと岸辺に船を寄せた武田の斥候部隊は、背後から襲いかかった新太の部隊によって、なすすべもなく蹂躙されていった。
「なっ……伏兵か! いつの間に陸へ!」
彼らは、井伊水軍が海の上だけで動くと信じ込んでいた。その油断が、致命的だった。
新太の槍は、狼煙台を守る兵たちを次々と薙ぎ払い、弥助率いる元武田兵たちは、地の利を活かして逃げ惑う敵兵を的確に狩っていく。
敵が一人でも生き延び、馬場本隊へこの奇襲を伝えれば、全てが終わる。
新太の部隊は、輸送船団の時間を稼ぐため、敵を一人残らず殲滅するべく、鬼神のごとく戦った。
一方、その頃、海の上の輸送船団は、ついに目的の入り江へと到着していた。
そこは、切り立った崖に囲まれた、天然の隠れ港。
源次は、船団が入り江に滑り込んだのを確認すると、安堵の息を吐いた。
だが、安堵は束の間だった。
入り江の奥、松林の影から、数十の黒い人影が、槍を構えて姿を現したのだ。
「……敵か!?」
井伊の兵たちが、色めき立つ。
だが、その人影の中から、見覚えのある顔が、松明の光の中に浮かび上がった。
酒井忠次だった。
彼は、自らが率いる決死の部隊と共に、この場所で救援を待ち続けていたのだ。
その奇跡の再会を演出したのは、城内に潜伏していた佐平だった。彼は、源次からの補給計画の存在を、徳川家中で唯一、冷静な判断力を失っていなかった忠次にだけ密かに伝え、この合流地点を約束させていたのである。
「……本当に、来るとはな」
忠次の顔には、疲労と、それを上回る深い安堵の色が浮かんでいた。
「源次殿。……礼を言う」
その短い言葉に、全てが込められていた。
だが、感傷に浸っている時間はなかった。
「荷揚げを急げ!」
源次の号令一下、決死の兵糧輸送作戦が始まった。
嵐はまだ完全に止んではいない。荒波が打ち寄せる中、船から岸へ、米俵を肩に担いだ兵たちが、人から人へとリレー形式で運び出していく。
足元はぬかるみ、波に足を取られて海に落ちそうになる者もいる。
だが、誰も弱音は吐かなかった。
この一俵が、城で飢えている仲間たちの命を繋ぐ。その想いだけが、彼らを突き動かしていた。
源次も、権兵衛も、そして忠次でさえも、自ら泥水にまみれ、兵たちと肩を並べて米俵を運んだ。
身分も、家の違いも、もはやそこにはない。
ただ、仲間を救うという一つの目的のために、心を一つにした男たちの姿が、そこにはあった。
遠く、陸の方角から、まだ微かに刃の交わる音が聞こえてくる。
新太たちが、命がけで時間を稼いでくれている。
その事実が、彼らの腕に、さらなる力を与えていた。