第333節『練度の差』
第333節『練度の差』
新太が陸の伏兵へとその牙を剥いたのと、時を同じくして。
湖上でもまた、一方的な蹂躙が始まろうとしていた。
崖の上では、弥助率いる元武田の兵たちが、地の利を得て矢を放っていた弓兵部隊を、背後から音もなく急襲していた。山岳戦に習熟した彼らの前に、ただの弓兵は赤子の手をひねるように打ち破られ、陸からの矢の雨は、あっけなく止んだ。
その瞬間を、権兵衛が見逃すはずはなかった。
「野郎ども、聞いたな! 陸の喧嘩は新太の若様に任せとけ! 俺たちは、海の獲物を片付けるぞ!」
彼の号令一下、それまで防御に徹していた井伊水軍の偵察部隊が、一斉に反撃に転じた。
彼らが対峙していたのは、武田が急遽編成した、にわか仕立ての水上部隊だった。彼らは屈強な陸の兵ではあったが、揺れる船の上ではその武勇も半減し、ただ闇雲に櫂を漕ぎ、矢を放つことしかできない。
その素人同然の動きを、権兵衛は嘲笑うかのように翻弄した。
彼の操る小早船は、まるで水面を滑る水鳥のように、敵船の隙間をすり抜けていく。そして、すれ違いざまに、配下の漁師たちが鉤縄を投げ、敵船の櫂を絡め取り、次々とへし折っていく。
手足をもがれた武田の船は、嵐の中でただ木の葉のように回転するだけ。そこへ、別の船が回り込み、焙烙玉を投げ込み炎上させる。
それは、もはや戦ではなかった。
熟練の漁師が、網にかかった初心な魚を、一匹ずつ仕留めていく、ただの「漁」であった。
そして、陸でもまた、圧倒的な力の差によって、戦いの趨勢を決しようとしていた。
新太は、もはや敵兵を相手にしていなかった。彼の目はただ一点、この伏兵部隊を率いる指揮官の旗印だけを捉えていた。
「そこをどけぇ!」
彼の槍が薙ぎ払われるたびに、人の壁がいとも容易く崩れ去る。
敵の指揮官は、その鬼神のごとき突進を前に、恐怖に顔を引きつらせた。
「止めろ! 全員でかかれ! あの男一人を止めれば、我らの勝ちだ!」
だが、その命令が、彼の最後の言葉となった。
兵の壁を突き破った新太の槍が、指揮官の喉笛を、寸分の狂いもなく貫いていた。
頭領を失った陸の伏兵部隊は、完全に統率を失った。
陸と海の両面から挟撃され、指揮官まで討ち取られた彼らに、もはや戦う術はない。生き残った者たちは、武器を捨て、散り散りになって森の奥へと逃げ惑った。
後方、旗艦「竜神丸」の櫓の上で、源次はその全てを見届けていた。
(……見事だ)
彼の胸に、自らが育て上げた二つの力への、確かな手応えが宿っていた。
陸の戦を知り尽くした新太の「武」と、海の理を知り尽くした権兵衛の「技」。
その二つが合わさった時、井伊水軍は、ただの寄せ集めの部隊ではない、陸海両用の、全く新しい戦闘集団と化していた。
武田が誇る「地の利」を、井伊水軍の圧倒的な「練度」が、完全に凌駕した瞬間だった。
鷲ノ瀬の狭い水道には、燃え盛る敵船の残骸と、静寂だけが残されていた。