第331節『鷲ノ瀬の死闘』
第331節『鷲ノ瀬の死闘』
権兵衛が打ち鳴らした警告の陣鐘が、嵐の轟音に混じり、かろうじて後続の船団へと届いた。
その鋭い響きは、航行に集中していた兵たちの間に、一瞬にして鋼のような緊張を走らせた。
暗闇と豪雨。視界はほとんど効かない。だが、敵がいる。その事実だけが、冷たい現実として彼らの肌を刺した。
後方、旗艦「竜神丸」に伝令の小舟がたどり着き、源次は敵影の存在を確信した。
(……来たか。やはり、あの馬場信春という男、ただでは通してくれんか)
彼の脳裏には、最悪のシナリオが浮かんでいた。だが、その表情に焦りはなかった。
彼は即座に、傍らの法螺貝役に命じる。
ブオオッ、ブオッ、ブオッ――。
短く、しかし鋭い三度の吹鳴。それは「全軍、戦闘態勢へ移行せよ」という、絶対の命令だった。
その音を合図に、戦いの火蓋は切られた。
鷲ノ瀬の狭い水道の岩陰から、武田の斥候と思われる数隻の小舟が、矢のように飛び出してきた。彼らの目的は戦闘ではない。井伊水軍の規模と進路を確認し、陸で待ち構える本隊へ狼煙で知らせることだ。
「かかれ! あの者たちを止めろ! 狼煙を上げさせるな!」
権兵衛の怒声が飛ぶ。彼の偵察部隊が、即座に迎撃態勢に入った。
だが、それは陽動だった。
斥候船に気を取られた井伊水軍の側面――嵐で視界の効かない岸辺の林の中から、無数の火矢が一斉に放たれたのだ。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
風を切り裂き、雨の中を赤い軌跡を描いて飛んでくる矢の雨。それこそが、馬場が仕掛けた罠の本体――陸からの奇襲攻撃だった。
「盾を構えろ! 商船を守れ!」
新太の怒声が響き渡る。
護衛艦隊の戦闘艦が、即座に輸送船団の外周を固めるように陣形を変え、分厚い木の盾で矢を防ぐ。カン、カン、と矢が盾を打つ乾いた音が、嵐の音に混じって響いた。
「くそっ、陸からだと!?」「どこに潜んでいた!」
井伊水軍の兵たちに動揺が走る。船上からの攻撃には訓練を積んできた。だが、視界の効かない陸からの、一方的な攻撃は完全に想定外だった。
その絶望的な戦況を、竜神丸の櫓の上から、源次は冷静に見極めていた。
(……面白い。陸の将である馬場らしい、陸と海を連携させた見事な罠だ。だが、貴様の読みもそこまでだ)
彼の脳裏には、この混戦こそが、自らが仕掛けるべき次の一手の、最高の舞台として映っていた。
(陸に敵がいるのなら、話は早い)
彼は、再び法螺貝役に命じた。
今度の音色は、これまでとは全く違う、長く、そして一度だけ響き渡る、獣の咆哮のような響きだった。
その音を聞いた瞬間、乱戦の只中にいた新太の顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「……ようやく来たか。野郎ども、聞いたな!」
彼は、鞘に納めていた槍を抜き放ち、天へと掲げた。
「これより、海の戦いは終わりだ! 陸の戦を始めるぞ! 岸へ乗り上げよ! 敵の懐に飛び込むぞ!」
その号令一下、新太をはじめとする戦闘部隊の兵たちが、鉤縄を手に、矢の雨が降り注ぐ岸辺へと、次々と船を接岸させていく。
海の戦いは、一転して、敵の伏兵が潜む森の中での、血で血を洗う白兵戦の舞台へと変貌しようとしていた。
源次が放った、起死回生の一手。
その真価が、今まさに問われようとしていた。