第330節『闇夜の航海』
第330節『闇夜の航海』
井伊水軍の船団は、漆黒の闇と荒れ狂う嵐の中を、ただひたすらに西へと進んでいた。
風が帆を叩き、マストがきしむ音が轟音にかき消される。降りしきる雨は、兵たちの顔を容赦なく打ち、視界を奪った。船は巨大な波のうねりに持ち上げられては叩きつけられ、その度に船体が悲鳴のような軋みを上げた。
その地獄の航海の先頭を、権兵衛が率いる数隻の偵察部隊が、まるで水先案内人のように進んでいた。
彼らは長年の勘と経験を頼りに、荒れ狂う波の中、暗礁を避けながら安全な航路を切り拓いていく。彼らが掲げる船首のわずかな灯りだけが、後続の船団にとって唯一の道しるべだった。
その後方を、米を満載した商人たちの輸送船団が、必死の形相で舵を握りしめながら続く。そして、その船団全体を、新太率いる戦闘部隊が、前後左右から固めて護衛していた。
その全ての船団から、さらに数里後方。
嵐の影響が比較的少ない、入り江の陰。
旗艦「竜神丸」は、まるで嵐の目の中にいるかのように、静かに投錨していた。
櫓の上で、源次は一人、西の闇を見つめていた。彼の周囲には、伝令役の小舟が数隻、主の命令を待つ猟犬のように息を潜めている。
彼は、自らを最も危険な前線に置くという愚を犯さなかった。軍師としての彼の戦場は、この後方の司令塔。ここから、戦場全体の流れを読み、的確な指示を飛ばすことこそが、彼の役目だった。
彼は、自らの内に渦巻く不安を、冷静な分析で押し殺していた。
(……来るはずだ)
彼の脳裏には、かつて書斎で読み耽った『甲陽軍鑑』の記述が浮かんでいた。
(甲陽軍鑑に描かれた、あの馬場信春という将は、決して油断する男ではない。むしろ、石橋を叩いて渡るほどの慎重さを持つ。彼が、この嵐の夜に何の備えもしていないはずがない。必ず、どこかに網を張っている)
彼の視線が、海図の一点――鷲ノ瀬――に注がれる。
(……頼むぞ、権兵衛。お前の耳だけが頼りだ)
船団は、やがて馬場が罠を張った「鷲ノ瀬」へと、刻一刻と近づいていく。
そこは、湖で最も航路が狭まり、岩礁が牙のように突き出す、船乗りたちが最も恐れる難所だった。
嵐の轟音の中、権兵衛の船の船首で見張りをしていた兵が、ふと眉をひそめた。
彼は、権兵衛の配下の中でも、特に耳が良いことで知られる男だった。
風の音、波の音、船のきしむ音。その全てが渾然一体となった轟音の中で、彼は、ほんのかすかな、しかしありえないはずの「音」を捉えたのだ。
木の板がきしむ音。そして、風向きとは逆方向から流れてくる、微かな人の息遣い。
彼は、血相を変えて、舵を握る権兵衛の元へと駆け寄った。
「権兵衛様! おかしいですぜ! この風と波の中で、聞こえるはずのねえ音が……!」
その一言に、権兵衛の顔色が変わった。
彼は即座に陣鐘を叩き、全艦隊に「敵影あり」の警告を送ると同時に、後方の竜神丸へと伝令の小舟を飛ばさせた。
報せを受けた源次は、静かに目を閉じた。
(……来たか)
彼の脳裏には、最悪のシナリオが浮かんでいた。
だが、その表情に焦りはなかった。
この事態すらも、彼の計算のうちだったのだ。