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第33節『奇襲の三条件』

第33節『奇襲の三条件』

 川面をわたる風は、すっかり秋の匂いを帯びていた。

 数週間にわたる地道な観測は、源次の頭の中に確かな地図を描き上げていた。天候と地形という「自然の理」は、ほぼ読み解いた。だが、まだ最後の一片――勝機を決定づける「人の理」、すなわち敵の心理的な隙が埋まっていなかった。


 夜、対岸の武田軍の陣からは、時折どよめきが響いてくる。源次は暗闇に潜み、じっと耳を澄ませた。

 「……双六か、賭場か」

 それは兵たちの声ではなく、酒気を含んだ笑いだった。焚き火の明滅に浮かぶ影の数も、以前よりまばらになっている。昼間に観察すれば、見張りの兵の交代が雑になっているのも分かる。かつてはきっちり二人組で櫓に立っていたものが、今では一人が眠気をこらえながら舟を漕ぐ始末だ。

 (歴史書で読んだ通りだ。長期の対陣は、必ず兵の規律を蝕む)

 源次の胸に、研究者としての冷たい確信が沈み込む。


 その夜更け、さらに決定的な出来事が訪れた。

 武田軍から使者が現れ、陣屋はにわかに騒がしくなった。源次は遠巻きにその様子を眺めていたが、やがて陣屋から出てきた兵たちの間で噂が広がり始めた。

 「おい、聞いたか? 武田が和睦を申し入れてきたそうだ」

 「本当か! これで戦も終わりか……」

 兵たちの顔には安堵の色が浮かぶ。和睦――敗北を意味しない、聞こえのいい言葉。疲れ果てた彼らの心には、甘い毒のように沁み渡る。

 だが、その噂を耳にした源次の表情は、むしろ険しさを増していた。

 (圧倒的に優勢な側が和睦を口にするのは、慈悲ではない。相手を脅威とすら認識していない、完全な侮りの現れだ。すでにこの戦は終わったものと、彼らは考えている)

 これ以上の証拠はない。これこそ第三の条件――「敵の油断」。

 源次の胸に、長らく探し求めていた最後のピースが音を立ててはまった。


 自らの寝床に戻ると、源次は灯火の下で地面に描いた川図を前に、思考を整理した。

 第一条件――「地の利」。漁師としての経験と現代知識で突き止めた、干潮時に現れる浅瀬。

 第二条件――「天の時」。科学的根拠に基づく、夜明け前の川霧。

 第三条件――「人の和」。歴史パターンから予測した、敵の油断と慢心。

 三つが揃ったとき、佐久間川は井伊に味方する。


 「……月齢は十二。あと三日で大潮だ」

 彼は空を仰いだ。澄み渡る夜空には、膨らみゆく月が皓々と輝いている。

 「月の引力が潮を動かす。迷信じゃない、確かな法則だ」

 その光はやがて満ち、潮を引き、川の水位を最も低くする。

 「干潮の刻……夜明け前だ。浅瀬が顔を出す」

 源次は震える指で、川図に印をつけていく。

 天候も味方している。この数日間は雲が少なく、朝方は放射冷却で霧が出やすかった。晴天が続く限り、大潮の夜明けには必ず川霧が発生する。

 「霧が俺たちを隠してくれる」

 そして最後に、敵の心理。武田は油断しきっている。

 「敵の心が緩んでいる」


 全てが揃った。源次は、地面に大きく×印を刻みつけた。

 「三日後……三日後の夜明けだ」

 声が震えた。これまで点でしかなかった観測が、線となり、ついに一つの絵図となった。

 脳裏では、集めた情報を元にした作戦のシミュレーションが、まるで実際に起こるかのように精密に再生されていく。霧に紛れて兵が渡り、浅瀬を踏み越え、敵の背後に回る。油断しきった武田軍は、気づいたときにはすでに崩壊している。それは予言ではない。無数の変数から導き出された、最も確度の高い解だった。

 「勝てる……!」

 思わず握り拳を作った。その瞬間、背後から声がした。

 「お前さん……一体何を見つけた」

 振り返ると、松葉杖をついた重吉が立っていた。

 重吉は、しばらく黙って源次の様子を見ていたのだろう。奇妙な笑みを浮かべ、しかしその目は鋭く光っている。

 「川ばかり睨んで……ついに何か掴んだんだろう」


 源次は逡巡した。この計画は、誰にでも軽々しく打ち明けてよいものではない。だが、重吉なら――。彼は静かに覚悟を決めた。

 「重吉さん……三日後、俺たちは勝てます」

 声は低く、だが確信に満ちていた。

 重吉の眉がぴくりと動く。

 「……勝てる、だと?」

 源次は、地面に描いた川の略図を示した。そこに木片を並べながら、一つひとつ丁寧に説明していく。

 「まず、この川は潮の影響を受けます。これまでの観測から、三日後の夜明けが大潮で水位が最も下がる。その時、普段は流れに隠れている浅瀬が現れ、兵が渡れる道となるのです」

 「次に霧。晴れた夜が続けば、夜明け前には必ず濃い霧が出ます。これも何度も確認しました。その霧が、俺たちの渡河を敵の目から隠してくれる」

 「最後に敵の油断。見張りは緩み、和睦を口にするほど慢心している。奴らは、攻められるとは夢にも思っていないでしょう」

 源次は熱を帯びながらも、あくまで論理的に積み上げていった。三つの条件が偶然ではなく、必然として絡み合い、一つの絵を描いていく。

 「三日後の夜明け。地形、天候、そして敵の心理――すべてが、俺たちに味方します」

 重吉は黙って聞いていた。最初は眉唾といった表情だったが、次第に目が見開かれ、頬が紅潮していく。

 「……お前さん、本気で言ってるのか?」

 低く呟き、松葉杖をぎゅっと握りしめた。

 「これは……博打じゃねえ。理だ……! 源次、お前さんのその理に、この老いぼれの命、預けてみるか!」

 武者震いを抑えきれないように、重吉の肩が震えていた。その瞳には、久しく忘れていた戦う者の炎が宿っている。

 源次は静かに頷いた。

 こうして、彼の最初の理解者は、井伊家の未来を賭ける最初の「同志」となったのだった。

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